[Novels]

【僕らは深き海の底 】

「ユーリさん」
 呼び声は儚くて。泡にさえもなれず、頼りなく消えていく。
「ユーリさん」
 見上げた空は、遥か。どこまでも高く遠く。
 響く波の音。彼方まで広がる海の、干からびた砂浜に立ち。
 雲のさざなみ打ちよせる天上の汀に、己の中の、人魚の記憶を抱きしめる――。

――僕らは深き海の底

Chapter 1 - 01

 日は傾き始めているのに、夏の暑さは容赦ない。
 暑いからこその夏休みではあるが、ここまで暑いと地球そのものが恨めしい。
 心の中で悪態を付きながら、祥吾は腕で顎を伝う汗を拭う。
 夏休み二日目。親戚が運営している古びて潰れかけた八百屋の店番を手伝った帰り道だった。
 住み慣れた街の、じりじりと真っ黒に焼き上がったアスファルトの向こう。こちらに歩いてくる人影が、陽炎に揺らいで見える。その人影が中学時代の悪友であることに気付いて、祥吾は思わずうんざりと眉をひそめた。
 ――いやな奴に会った。
 そんな祥吾の表情を読みとって、相手の顔にも露骨に不機嫌さが浮き出る。
「祥吾、お前……」
「うるさい、黙れ」
 高校になってからは、ケンカ仲間と関わるのは辞めたのだ。
 相手が何か言いかけるのを低い声で遮ると、相手の男は忌々しげに舌打ちをした。
「……相っ変わらずムカつく奴だな」
「何だって?」
「お前の態度がムカつくっつってんだよっ」
 吐き捨てられた言葉が妙に癇に障って、祥吾は思わず声を荒げた。
「ケンカ売ってんのかよ、浦川ぁ!」
「ケンカ売ってんのはどっちじゃ、このボケがぁっ!」
 浦川の苛立った声とともに、風を切る音が祥吾に向かって飛んでくる。
「ふざけろ」
 拳を軽々と避け、そのへなちょこパンチを祥吾は鼻で笑い飛ばす。
 バランスを崩した浦川は、しかし辛うじて踏み止まると、ちぃっと舌を鳴らして回し蹴りへと攻撃を繋げる。
 背の低い祥吾の、頭へ向けて飛んでくるハイキック。
 即座に体を後ろに反らし、そのまま地面に手を付いてバック転――
「だぁっ熱っ」
 思わぬアスファルトの攻撃に、祥吾はそのまま地面へと転がった。
「バァーカ」
 嘲笑う浦川がマウントポジションを取るべく手を伸ばす。
「馬鹿はお前だっ」
 その腕を掴み、腹を足で固定して大きく後方へと投げ飛ばす。
「のわぁっ?」
 奇声を上げつつも器用に地面に着地する。
 ――相変わらず身軽な奴め。
 感心と余憤を同時に抱きつつ、隙をついて反撃。
 祥吾の拳と、浦川の、勘に頼った振り向きざまの見事なクロスカウンターが互いの顔面へと決まった。
「――痛ってぇ!」
「お互い様じゃ、このナスがぁ!」
「んだとー?」
 苛立ちは治まらない。
 すかさず第二ラウンドへ突入しかけた二人の耳に、神経に障る甲高い笛の音が飛び込んできた。
「交番の横で、あまり派手なケンカしないでくれよ」
 迷惑だから。という言葉を笑顔に隠して、顔見知りの警官が言う。
「うるせぇよ」
「……すみません」
 反射的に切り捨てた浦川は、祥吾の取り繕うような態度により一層大きな舌打ちをして、突き放すように祥吾から離れた。
「祥吾、てめぇ、ほんっとムカつくぜ」
 捨て台詞とともに足早に立ち去る浦川の背中を眺めて、祥吾の隣で警官が軽くため息をつくのがわかる。
「お騒がせしました」
 顔を見ないまま、ぶっきらぼうに謝る。
「いいよいいよ。若い頃には良くあることだよね」
 ――何を判ったようなことを。
 反射的に睨み付けそうになるのを、目を閉じて辛うじて抑える。
 警官はそれを反省していると受け取ったのか、笑顔のまま言葉を続けた。
「とはいえ、もっと何か他に、打ち込めることを見つけた方が良いんじゃないのかな?」
「大きなお世話ですよ」
 抑えきれなかった言葉がうっかり口から漏れた。
 笑顔を凍り付かせて、それでも何か続けようとする警官を無視して、
「じゃあ俺、失礼します」
 怒りをアスファルトに踏みつけながらその場を後にした。
 大人が判ったようなことを言うのは、仕方のないことだと思う。
 彼らは未だに信じているのだ。その昔、子供だった自分の記憶が心の中にある以上、祥吾達の気持ちもわかるはずだと。最近の子供は何を考えているか解らないと、その口では言いつつも。心のどこかでは頑なに、きっと理解できるはずだと。
 ――わかるはずがないのに。
 同じ大人同士の気持ちでさえ、量れずに混乱し、こじれるような複雑な差があるのに。
 どうして、成長環境の違う、吸収して来た情報の量も与えられた状況も、待ちかまえる未来さえも違う子供の気持ちが解るというのか。
 イライラする。この暑さも、まとわりつくような湿度も、傾いても尚衰えない太陽の熱も。そして、些細なことにひどく苛立つ自分自身のガキっぽさにも。
 焦燥なのだろう。祥吾はそう分析する。
 もっと他に何か、打ち込めることを。
 ――そんなことはわかっているのだ。
 見つからないから、苛立っているのだ。
 夢だとか希望だとか、大切な何かだとか。そんなものが簡単に見つけられるのなら、自分も浦川も、わざわざ殴り合いなどしていないのだ。
 大切なものなど何もない。
 けれど、そんな人生などと、捨ててしまえるほどの悟りもありはしない。
 じりじりと、すべてが太陽の熱に煽られて乾いていく気がする。
 半端で何もない自分から、この存在さえも奪っていく気がする。
 ――いっそこのまま、しゅわしゅわと溶けて無くなればいいのに。
 しかしそんなことあるはずがないことも知っている。
 溶けたアスファルトが足を取らえ、一歩毎に歩みの邪魔されているような気がする。
 額から汗が流れ伝い、口元へと辿り着く。
 切れた唇が、少し痛んだ。
 舌で触れると、チリリとした痛みとともに、鉄錆臭い血の味がした。
 ――イライラする。
 息を吐いて足を止め、気持ちを落ち着けるように目を閉じると、聞き慣れた海の息づかいが耳に届いてきた。
 誘われるように、祥吾は海へと歩き始める。
 幼い頃から側にあった海だ。広い広い、砂漠を思わせるような砂浜。そして、遊泳禁止の遠浅の海。
 泳げない海の存在意義って何だろうな。
 少なくとも子供の役には立たなそうだ。そんなことを思う。
 けれども祥吾は、その泳げない海がきらいではなかった。
 白くなだらかなコンクリートの階段を下り、砂浜へと足を踏み入れる。
 足が沈む感触は、アスファルトのそれとは違い、不思議と心地よかった。
 細かい砂が、歩くたびにサクサクと小さな音を立てる。
 砂浜の向こうにゆったりとした波の音だけを聞きながら、乾いた砂の上を歩く。
 穏やかな海風が、汗で湿った額を撫でていく。
 風とともにひときわ大きくなる海の音。
 顔を上げ、ゆっくりと砂浜を見渡した祥吾は、波打ち際でひとりたたずむ人影に足を止めた。


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