[Novels]

【僕らは深き海の底 】
 Chapter 1 - 02

 海風に、緩やかになびく黒い髪。
 夏に映える真っ白な開襟ブラウスに、洗いざらしのジーンズ。
 ブラウスの半袖から伸びる細い腕は、陽の光を反射するほど白く滑らかで。細く華奢なシルエットはしかし、女性らしい柔らかさもその薄い布地の向こうに秘めているようだった。
 ――抱きしめたら壊れてしまいそうだ。
 襟元からのぞく細い首筋。肩に掛かる長い髪は、濡れように艶やかで、しっとりと柔らかそうで。触れたくなるような、けれども触れてはいけないような、そんな、ない交ぜになった気持ちが祥吾の心に沸き上がる。
 砂浜に立ち、空を見上げる大人びた横顔には、どこか寂しげな表情が見て取れた。
 波が砂を撫でる音だけが、彼女を包み込んでいる。
 世界に彼女以外の存在は無く、たった一人で海の底に立っているような。
 祥吾はそんな錯覚に捕われて、彼女を見つめたまま言葉もなく立ちつくした。
 たゆたう波の音。真夏の斜陽に揺らぐ風。太陽を反射してキラキラと光る水面。
 すべてが朧に儚く、そして世界は抱えきれないほどの熱と静寂に満ちている。
 海風が、長い髪を揺らした。
 ふわりと舞う毛先を細い指で押さえつけて。
 彼女は祥吾の存在に気付くと、穏やかに微笑んだ。
 ざざ――と、波がざわめいた。
 その瞬間、容赦なく砂浜を焼いていたはずの太陽さえもが柔らかく変化した気がして、祥吾は息を飲んだ。
 海風に似た、柔らかく熱いものが祥吾の胸を通り抜けていく。
「あ……」
 何か言おうとして、けれども言葉は思いつかなくて。
 そうして戸惑っているうちに、微笑みながら祥吾の側まで歩いてきた彼女は、不意に表情を強ばらせた。
「君、怪我をしている」
 少しだけ掠れた、耳に心地よい声でそう呟くなり、ひんやりとした細い指が祥吾の唇に触れた。
 祥吾の心の中を、透き通った魚がはねた。
 声さえも出せず、ただ、彼女の長い睫毛を見つめる祥吾に、
「砂もついてるじゃないか……。君、取っ組みあいでもしたのか?」
 彼女はそう言って祥吾の髪についた砂を優しく払った。
 祥吾の柔らかいくせっ毛が、離れるのを惜しむように彼女の指に絡む。
 それがとても恥ずかしくて、祥吾は思わず砂浜に視線を落とした。
 ふたつの影が落ちる白い砂浜に、彼女の汚れ一つない青色のスニーカーと、自分の履き古した灰色のスニーカーが沈んみこんでいる。それから目をそらすように顔を上げて、
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
 ひどく掠れた祥吾の声に、彼女は涼やかに微笑んだ。
 
 特に話せる言葉もなくて。
 もう少し一緒に居たいとは思ったけれど、だからといってどうすることもできず、祥吾は足を捕らえる砂に後ろ髪を引かれながらも、早々に海を後にした。
 誰もいないリビングで、テレビの音を聞きながら早めの夕食をとる。
 作り置きの煮物が唇に染みたけれど、痛みは同時に、海で出会った彼女のひんやりとした指先を思い起こさせた。
 ――名前とか、聞けばよかった。
 聞く勇気など到底無かったけれど。
 すっかり暗くなった庭から、虫の鳴き声が響いてくる。
 テレビのニュースでは相変わらず、このところ増えている行方不明者に関する情報を流していた。少しずつ移動しているらしい被害は、とうとうこの街にも来たらしい。
 ――物騒だな。
 彼女に被害が及ばなければ良いけれど。
 祥吾は彼女の細い体を思い出して、ぼんやりとそんなことを思った。


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