[Novels]

【僕らは深き海の底 】
 Chapter 1 - 03

 中学時代の祥吾はケンカに明け暮れた生活をしていた。
 集団に所属する気力もなかったので、浦川と二人で連んでいた。
 組織には無関心だったので、あまり大げさなことはしていなかったけれど、それでも何度か警察のお世話にはなった。そしてその度に、親にはどうしてケンカばかりするのかと泣かれた。
 ――どうして。と問われても。
 祥吾はそれに返せる答えを持っていない。
 他にやることが無かったし、やりたいことも無かっただけだ。
 焦燥だけが心の底にあって、けれども中心は空っぽで。
 仕方がないから、手近なところに逃げていただけだった。
 ここにいる。その現実が、心に伴わない。どこまでも曖昧で、希薄で、軽薄だった。
 今でもそれは変わらない。
 ただ、なんとなく、中学を卒業して浦川と学校が離れてみると、ケンカをすることさえも馬鹿馬鹿しく思うようになった。ケンカなんて疲れるだけだ。そこに意味など見出せない。
 では他に何かすることがあるのかと問われると、祥吾は相変わらず返せる言葉を持たないのだけれど。
 ――何か、あるといいのに。
 近所の知り合いしか来ないような、本当に小さな八百屋の手伝いをしながら、祥吾は思う。夏休みを迎えるにあたり何かやれることは無いかとたずねて、母親に紹介して貰った八百屋の手伝いだったが、今のところ手伝いらしい手伝いができているようには思えなかった。
 バイト代が出ると言うわけではない。もともと祥吾の通う高校はアルバイト禁止であったし、そもそもバイト代をもらえるような働きはしていないと祥吾自身思う。
 午前十時頃店に赴いて、店番をし、時々来るお客さんの相手をしたり、野菜の値札づくりをしたりする。それからお昼をご馳走になって、また、時々来るお客さんの相手をしたり、店主である伯父さんが時々気まぐれに話してくれる、店先に並んだ野菜や果物に関する蘊蓄(うんちく)を聞いたりして夕方まで過ごす。
 ケンカよりはマシかも知れないけれど、だからといって、どうということもない気がする。とはいえ、行くのをやめようと思うほどでもなかった。
 帰りはいつも同じ道を通り、途中で少しだけ海へと足を伸ばす。人気のない砂浜を遠目に眺め、祥吾はしばらく海風吹かれる。
 ――また、会えたらいいなぁ。
 そこに無い人影を見ながら、祥吾は思う。
 思うだけで、心の中が小さく波立つ気がした。
 ひんやりとした細い指と、柔らかな笑顔。風に揺れる髪を瞼の裏に何度も再生しながら、明日こそはという期待と、もう二度とという諦念を抱いて家に帰る日々を、祥吾は何回か繰り返した。

 その日、いつも通り店番を終えて、いつも通り軽く挨拶をして店を出ようとした祥吾は、店主である伯父さんに声をかけられた。
「お疲れさん」
 低い、渋い声で言いながら、伯父さんは祥吾に茶色の紙袋を渡す。
 底が丸く膨らんだ紙袋は受け取ると手に重く、その感触と形から、祥吾はすぐに何かの果物か野菜だとわかった。
「夏みかんだ。毎日暑いからな、夏バテ予防に食べると良い」
 続けてきてくれているご褒美だ、と、伯父さんは言った。
 袋をのぞいてみると、蒸し暑い店内にふわりと爽やかな香りが広がった。
 ゴツゴツとした、それでいて艶やかな赤味の強い橙色が、祥吾の目に眩しく映る。
「ありがとうございます……」
 他に何か気の利いたことが言えればいいのにと、自分の至らなさを少し残念に思いながら、祥吾は店を後にした。
 ――果物。子房。種を包み守るもの。
 それを食べてしまうというのは、ある意味残酷かも知れない。
 そんなことをぼんやりと思いながら、海へと向かう。
 ――今日も、会えないかな。
 もう諦めの方が先立つ気持ちと、それでもと願う淡い気持ちに引っ張られながら降りた砂浜は、太陽に照らされて白く眩しく輝いている。
 わずかに陽炎でゆらぐ視線の先に白いシャツの人影を見つけて、祥吾は何かを考えるよりも早く走り出した。
 足音に気付いて、彼女が振り返る。少しだけ驚いた様な表情が、次の瞬間、和らいだ。
 何を言えばいいのか。一瞬、祥吾の心に戸惑いが過ぎる。そして、結局何もまとまらないままに、祥吾は口を開いた。
「この前は、ありがとう、ございました」
「どういたしまして」
 風になびく髪を、そっと指先で後ろの流して彼女が微笑む。
「怪我は、治ったようだね?」
 素っ気ない口調の奧に、優しさが潜んでいるような、そんな、少しだけ掠れた声。
 何度も繰り返し頭の中で思い出した彼女よりもずっと、透明な輝きを心を満たす彼女の眩しさに、祥吾は少しだけ目を伏せた。


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