[Novels]

【僕らは深き海の底 】
 Chapter 1 - 04

 耳に、ゆったりとした波の音が届く。
 彼女の肩越しに見た泳げない海は、鈍く深い色で遠くまで広がっている。
 しばらく二人して無言で海を眺めていると、祥吾の隣でふと彼女が呟いた。
「母なる海とは、慈悲深いものだろうか」
「え?」
 小さな呟きは波の音に飲まれ、言葉は祥吾まで届かない。ただ、僅かに耳をかすめた声に問い返すと、彼女は「何でもない」と小さく首を振った。
 水平線の彼方を、太陽の帯がゆっくりと伸びていく。
 再び無言で海を見ていた彼女はふいにしゃがみ込むと、ジーンズの裾を折り曲げて、靴を脱ぎ捨てた。ただ見守るだけの祥吾の前で、白い素足が砂浜に小さなあしあとを残す。あしあとは波打ち際までたどり着き、彼女は波の歌に耳を傾けながら、ゆっくりと波打ち際を歩きはじめた。
 寄せては返す波が、彼女の足を撫で、小さな砂粒を海の奧深くへと引きずり込んでゆく。
「遠浅だけど、波がうねってるんで気をつけて」
 祥吾が声をかけると、彼女は大丈夫だとでも言うように微笑んだ。
 ざざ――と波が打ちよせる。沈みゆく夏の日の中で、彼女のシャツがゆっくりと夕日色に染まる。細い足首に波がはねてきらきらと光る。それにあわせて、祥吾の心も小さくはねた。
 波打ち際を祥吾の見える範囲で往復し、満足げな表情で戻ってきた彼女は、濡れた足にまとわりつく砂粒を払ってから靴を履き、祥吾を振り返った。
「海は好き?」
 頷いて返す祥吾に、
「そうか」
 彼女はぽつりと呟く。それから何か言いたげに口を開きかけて、言葉を続けるかわりに、ただ小さく首を振った。
 ざざ――と、再び海が音を立てた。
 彼女の髪が、ふわりと風に揺れた。
 海風の中に甘い香りが混じった気がして、祥吾は腕の中の紙袋をそっと抱きしめた。
 紙袋が、かさりと音を立てる。その音に気付いた彼女は紙袋を見つめながら、何だろうというように首を傾げた。
 大人びた表情の、まるで幼い女の子のようなそのしぐさに祥吾はくすぐったい気持ちになった。
 誤魔化すように袋を開くと、祥吾の思いを隠すように夏みかんの香りが海風にとけて広がる。密かに安堵の息を漏らしながら、祥吾は夕日を浴びてますます輝く夏みかんを一つ取りだして、彼女へと差し出した。
「貰ったんです。夏バテ防止になるらしいですよ」
「へぇ……。良い香りだな」
 細く指が、祥吾の手から橙色の夏みかんを受け取る。
 優雅とも思える流れるようなしぐさで夏みかんを顔に近づけて、彼女は深く香りを吸い込んだ。
「いいね、心が安らぐ」
 白い肌に、橙色が映えた。
「あげます」
「いいのか?」
「まだありますし。……この前のお礼です」
 祥吾の言葉に、彼女は顔がほころんだ。
「ありがとう」
 大切そうに両手で包み込んで、もう一度香りを味わって。
「嬉しいな……」
 夏みかんを見つめたまま、彼女はそう呟いた。
 ――どうしよう。
 祥吾の思いに呼応するように、波の音が響く。
 ――俺は、この人を、
 風が吹く。彼女の髪が揺れる。舞い上がった毛先が、祥吾の鼻先をくすぐった。
 無意識に口を開きかけて、
「ユーリ!」
 後方から飛んできた幼い少女の呼び声に、祥吾は我に返って振り返った。
「アサヒだ」
 夏みかんから顔をあげて、彼女が呟いた。
 アサヒと呼ばれた少女は、真夏にもかかわらず大きな飾り襟のついた真っ黒なブラウスを着ていた。ふわりと風に揺れるフレアのスカートもまた、夜の闇よりも真っ黒だ。
 緩やかに波打つ髪を両サイドでアップにした姿は、まだ小学生だろうかと思えるほど幼いものであったが、その顔つきは、祥吾の隣に立つ彼女にとてもよく似ていた。
「妹さん?」
「姉妹なんだ」
 祥吾の問いに、ユーリと呼ばれた彼女は曖昧に笑う。
「ユーリ!」
 先ほどよりもやや強い口調で、黒を纏った少女が繰り返した。
「呼んでる、行かなくちゃ……。これ、ありがとう」
 祥吾を見つめたまま僅かに夏みかんを掲げると、彼女は祥吾に背を向けた。
「あのっ」
 その背中に向かって、祥吾は思わず声をかける。
 立ち止まり、首を傾げながら振り返る彼女に、
「あの、俺、祥吾っていいます」
 大きな声で名乗ると、彼女は今までにないくらい、明るく笑った。
「そう、祥吾。じゃあ、またね」
 ふわりと長い髪をなびかせて、今度こそ振り返らずに去っていく。
 海はまた、ざざ――と、穏やかな音を立てた。
「またね」
 そっと口の中で繰り返す。
 ――またね。って、いい言葉だな。
 防波堤の向こうに消えていくシルエットを見送りながら、祥吾は夏みかんの袋を抱きしめた。


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