[Novels]

【僕らは深き海の底 】
 Chapter 2 - 01

 申し訳程度のセキュリティが設けられた、見た目だけは高級そうなマンションのフロントを通り、エレベーターを上がって家の前に立つと、アサヒが鍵を取り出す間もなく扉が向こうから開いて、背の高い、眼鏡をかけた男がユーリたちを出迎えた。
「おかえり」
 笑顔で言う男の横を、アサヒは無反応ですり抜けてリビングへと向かう。
 わずかに苦笑する男に小さく会釈して、ユーリも玄関へと足を踏み入れた。
「いい香りがするね」
 扉を閉め、ユーリを部屋の中へと促しながら、男がユーリの持つ夏みかんを指さす。
「夏バテ防止になるそうです」
 海で出会った、祥吾と名乗る少年のことを思い出しながら、ユーリは男の目の前に夏みかんをかざした。顔を近づけて、男が香りをかぐ。さらりと額にこぼれた男の前髪からは、かすかに消毒液の匂いがした。
「ちょっと、あんたまたファーストフード食べてんの? やめてよね」
 リビングから、アサヒの声が飛んでくる。
 のぞいてみると、リビングのテーブルには確かに、ファーストフードチェーン店の紙袋が綺麗に畳まれて置かれていた。
「作るのが面倒なんだよ」
「だからって、こんなのばっかり食べられたら迷惑なのよ」
 強い口調で非難しながら、アサヒは男を睨み付ける。おそらく言われ慣れた言葉なのだろう。男は小さく首をすくめて、その言葉をやり過ごした。
 アサヒも言うほどは気にしていないらしく、すぐにどうでも良さそうな表情になってソファーへと体を投げる。なんとなく、ユーリもそれに続いた。
「あれ? 夕璃(ゆうり)どうしたの? ジーンズの裾、砂がついてる」
 リビングとダイニングを仕切るカウンターに置いてある書類に手を伸ばしながら問いかける男に、
「男と海で遊んでたのよ」
 アサヒがふふんと鼻で笑った。
「へぇ?」
「アサヒ、そんな言い方は……」
 慌てて言葉を挟むユーリをアサヒはからかうような目で見つめ返す。
「違うの? 気に入ったんでしょ? だったらさっさと契っちゃいなさいよ」
「アサヒ……」
 言葉を無くして視線を落とすユーリを眺めながら、男は小さく笑う。
「なかなか、過激な発言だね」
「あんたに言われたくないわよ」
「朝妃(あさひ)はちょっと、僕に冷たすぎやしないかい?」
「優しくする必要があるとも思えないけど?」
 ソファーから、挑むような目で見上げるアサヒの視線を、男は透明なレンズ越しに真っ直ぐに受け止めて、小さくため息をついた。
「酷いな。僕はこんなにも朝妃を愛しているというのに」
「くだらないわね。愛しているというなら、私のために、もっとまともなものを食べなさいよ。こんな腐った油まみれの古い肉塊なんて囓ってないで」
「僕も、これでいてなかなかに忙しいんだよ? 誰かさんのせいで」
 男は笑みを浮かべたままの顔で、含んだような言い方をした。
「それで? 誰なの、あの男」
「え?」
 突然言葉をかけられて、ユーリは伏せていた顔を上げる。鮮やかに言葉を無視された男は、いつものことだとでも言うように首を振って、書類に目を落とした。
「あの海のガキよ」
「ガキって、アサヒ、……多分、わからないけど、歳はあんまり変わらない」
「高校生か!」
 男がヒューと口笛を吹く。
「あんたは向こうに行ってて」
 視線はユーリに向けたままで、アサヒが男に言い放つ。
「はいはい。じゃあ僕は仕事に行くよ」
 書類をソファーに置かれた鞄に詰めながら、
「けど朝妃、しばらく狩りはやめておいてくれよ。そうそう引っ越しばかりもしていられないからね」
 穏やかな声で言う。
「ふん。わかってるわよ」
 ふわりとスカートを翻させて足を組みながら、アサヒは鬱陶しげに手をひらひらと振って男を追い払う。
 男が出ていったのを確認して、アサヒは天上を仰ぐ。
「真面目な話、あんまり悠長なこと言ってられない事くらいはわかってるでしょ? あの男が気に入ったのなら、私は止めないわ。……政宗に比べればマシだと思うしね」
 淡々と吐き出されるアサヒの言葉を聞きながら、ユーリは掌の中の夏みかんを見つめた。
 窓から射し込む夕方の光に、夏みかんが一層強く香りを纏う。
 満たされていく香りに目を閉じて、ユーリは祥吾の笑顔を思い出す。
 ――また、会いたいな。
 気に入ったとか、契りたいとか、そういうことはまだわからないけれど。
 ――ただ、なんとなく、会いたい。
 ユーリは心の中で、呟いた。

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