[Novels]

【水饅頭と月にうたう】 其の二 - 01
二、十三日月と露天商

 月が出ている。白銀のアーモンドを思わせる十三日月。
 開け放たれた窓から、柔らかな風と月光が忍び込む和室で、紫紺のセーラー服に身を包んだ正晴は椅子に座ってうっすらと目を閉じる。
 艶やかな長髪のウィッグが、月明かりを反射して緩やかな輪を描く。
 巫女は女でなければならない。そういう旧例により、神剥がしの巫女として儀式を行う際には、正晴は女性に準じた格好をするようにと本家から命じられていた。故に、正晴は式服であるセーラー服を纏(まと)うとともに、ウィッグを着け、化粧も纏う。
 初めのうちはただ不快でしかなかった女装だが、最近ではプライベートと仕事の切り替えスイッチの役割を果たすようになっていた。特に、クラスメイトである陽一に姿を見られてからは、うっかり正体がバレないためにもより一層、女装に力を入れている。
 細く、ひんやりとした早苗の指が、正晴の、――華南の顎を優しく捕らえる。
 薬指に紅をとり、華南の唇を指でなぞりながら紅を施す。早苗の指が触れるくすぐったさに、華南はかすかに肩を震わせた。丁寧に、丁寧に紅を引く。そして、早苗はそっと唇を寄せる。
「……望月」
 瞼越しの世界に早苗の影がかかったのを感じて、華南はたしなめるように、ひとことだけ、名を呼ぶ。
 開いた瞳に、「残念」と呟きながら笑って誤魔化す早苗の姿が映った。
「支度、してくるね」
 華南に塗った紅の残りを自らの唇に薄く引きながら、早苗は音もなく部屋から出ていった。
 閉じらた襖を見つめながら、華南は深くため息をつく。
 正晴として、どうにも複雑な気分になれる瞬間だ。
 早苗は、華南のことが好きなのだという。
 普段の正晴に対しては、単なる幼なじみという認識しか持たない早苗が、華南に対しては触れたいという欲求を持つのだという。今日は未遂に終わったが、実際に、紅を引くついでに口づけをされたこともある。男として、ラッキーだと思う一面も確かにあるにはあるのだが。しかし、早苗が求めている相手は自分であって自分ではないのだと思うと、どうにもやりきれない気分になってしまう。
 いっそのこと華南としての姿のまま、早苗とことに及んでしまおうかと思ったことも、実のところ一度や二度ではない。が、正晴の理性が決してそれを許さなかった。
 ――ああ。自分の理性が恨めしい。
 窓から月を見上げて、華南である正晴は、再び深いため息をついた。

「華南、あそこに」
 三つ編みをほどいたあとの、緩やかに波打つ髪を揺らして夜風が大通りの先を指さす。
 その声に頷いて、華南は走り出す。長い漆黒の髪が、風にさらさらとなびく。
 スカートで走ることにも、もう慣れた。軽く左右を確認してから大通りを横切る。車の数こそ少ないが、その分スピードを出しているので油断はできない。こちらの姿を発見して、本能的に逃げ出す人影を追いかけながら。それでもやっぱりスカートは走りにくいと華南は思う。
 街灯の明かりが届かない裏路地へと逃げ込んでいく人影を見失う寸前で捕まえて、華南は素早くその腕を後ろに締め上げる。
「痛……っ」
 弱々しい声が、捕まえた相手から漏れた。中学生くらいだろうか。まだ幼さの残るその少年の顔には、けれども若さに似つかわしくない陰が落ちて見える。その陰に捕らわれているかのように、淡い淡い蔦色をした神が絡まっていた。
 神は、生きることに疑問を抱くものに囚われ、絡まるのだという。
 何故かということについては、本家から説明を受けていないし、華南にとっても興味はない。
 疑問を持っているのであれば、死んだって構わないのだろうと正直なところ思うし、絡まった神とともに捕らわれた人間が死んだところで、華南にとっては痛くもかゆくもない。
 絡まり、捕らわれてざわめく神を見つめながら、華南は式服の肩口から、袖にしまい込まれた長い針を取り出した。
 ――神針(かむり)。またの名を神離(かむり)。神を剥がす、紫紺の針である。長さは二十センチ程だろうか。蜘蛛の糸のように細く、月の光を浴びて濡れ光る。
 背後に夜風の足音を聞きながら、華南は一切のためらいもなく、ゆっくりと少年の頸椎(けいつい)に神針をあて、押し込むように力を入れる。わずかにでも刺し間違えれば、人間の命を絶ちかねない行為だったが、華南はそのことに対して戸惑いを覚えたことはない。
 ――放っておいても、いずれは力尽きるのだ。
 ならば、自分が刺し間違えて死んだところで、それは大差のないことだ。華南は揺らがない心でそう思う。それが良いことなのかはわからないけれども。ただ、迷いの無い華南が神剥がしに失敗したことは、未だ嘗て一度もなかった。
 音もなく首筋に沈み込んでいく針とともに、少年の躰と、絡まった神が震えながら剥がれていく。ゆらり ゆらり と。輪郭がぶれ、薄紫の靄(もや)が滲み出すように立ち上る。
「嫌……だ……」
 幽かな少年の声が、確かにそう聞こえた気もしたが、華南は気に留めることもなく針を引き抜いた。
 ずるり……
 そういう感覚を伴って、神が完全に剥がれる。
 意識を失い、跪いて倒れる少年を助け起こすでもなく見下ろす華南の隣で、たどり着いた夜風は歌を紡ぐ。剥がれた神を空へと送る、送り歌。
 夜の闇に、囁くような、さざめくような、小さな小さな歌声が響き流れる。
 美しい歌声だと、夜風の送り歌を聴く度に華南は思う。
 夜の街という舞台が故に、その歌声が高らかに大きく響くことはないけれども。
 夜風の歌声にはいつも、華南の持ち得ない何かが、隠れ、息づいている気がする。
 剥がれた神が、柔らかな光を纏いながらその歌に溶けてゆく。風が、ゆるやかに滑りくる。
 夜に染みこんでいくような柔らかな歌と、月明かりに浮かび上がる夜風の紫色の瞳に送られながら、十三夜の清らかな月に向かって、神の破片がゆっくりと空へ登っていく。
 神は、送り歌に乗って、天へ帰るのだという話。
 ――それもまた、どうでもいい話。
 無感動に月を見上げながら、華南は心で呟いた。



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