[Novels]

【水饅頭と月にうたう】 其の四 - 01
四、水饅頭と月の夜

 水饅頭が花をつけてから、正晴は苗の成長を見ても気持ち悪いとは感じなくなった。
 それ以上に、この花が咲き終わった後どうなるのか、それを想像するのが楽しみでならない。
「でも、結局どの辺が水饅頭なんだろ?」
 放課後、早苗とともに花を眺めながら、正晴が首を傾げる。
「やっぱり種かな。水饅頭みたいな丸っこい種ができるとか」
 呟く正晴に、
「……藤色の?」
 早苗が問い返す。
「あー。藤色の種なんて、そうそう無いか」
「うん。あんまり聞いたこと無いよ。……でもなんか、これだけ可愛くて綺麗な花が咲いたなら、二百円としてはもう十分満足な気分じゃない?」
 眼鏡の奧で楽しそうに目を細め、早苗は指先で花びらに触れる。
 その様子に、正晴は笑って頷いた。
 ふと気づいてみると、丸い五片の花びらを。その淡い紫色の花を。水饅頭の苗の成長を。毎日眺めることは、正晴にとって楽しみなことになっていた。
 そのうち、花びらが落ち、薄緑色の子房が大きくなって、種になりそうな気配を見せ始めた。そんな変化さえも楽しかった。どんなに疲れて戻ってきても、苗を眺めるだけで幸せな気分になれる。
 ――わかんないもんだな。
 日に向かって曲がろうが、水やりを忘れて萎れようが、どうでも良かった植物に今、確かに心を満たされている。鋭くささくれ立っていた心の表面が、緩やかに和んでいく。
 春のなめらかな風にゆらゆらと揺れる薄緑色の苗を見つめ、無意識に口元を綻ばせながら、神送りの儀式を終えてきたばかりの華南は、セーラー服から本来の正晴の姿へと戻った。

 ◇

 月が消え、再び生まれ、そうして時間が過ぎていく。
 季節的な波が一段落着いたのか、それともあまりにも連日ではいい加減負担が大きいだろうと本家が判断したのか。どういう理由でかはわからないけれども、しばらくの間、夜の巡回は休止してもよいとの旨の連絡が来た。
 苗の変化に癒される時間があるとはいえ、疲労の蓄積は避けられなかった正晴はその日、学校から帰るなり早々に、深い眠りに就いた。
 細い細い銀色の月が、再び空に輝く夜だった。
 眠りの海から、わずかに覚醒の岸へとたどり着きかけた正晴の耳に、幽かな歌声が届く。
 しばらくゆらゆらと夢うつつの際を揺らめいていた正晴は、次第にはっきりと耳に流れてくる細く高い歌声に目を覚ました。
 ――オーディオの電源、入れっぱなしだったっけ……?
 体を起こし、辺りをうかがう。細い月の浮かぶ、夜を切り取った窓辺からその歌声は聞こえてきていた。
 ――何だろう?
 窓の方には音楽を奏でるようなものは置いていなかったはずである。不思議に思いながら出窓へと向かう。布団から出たばかりの火照った裸足に、フローリングのなめらかな感触がひんやりと心地よく伝わってくる。
 歌声は、水饅頭の苗から聞こえてきている。驚きとともに目を凝らして見ていると、すっかり大きくなった子房部分がうっすらと紫色に染まっているのがわかった。
 薄い膜に包まれた子房の中で、紫色の影がくるりと動いた。それはまるで、孵化する直前の魚の卵の様に。
「何……?」
 魅入られたかのように見つめる正晴の視線の先で、歌は静かに響いている。時折、ゆらりと薄紫の影を揺らし、房を支える茎を揺らし、その薄紫の影を包んでいる膜に、細い切れ目が現れる。隙間から、艶やかな藤色がのぞく。
 そして、一片の薄膜とともに、淡い藤色のそれは小さな音を立てて鉢植えの横に落ちた。
「きゅ」
 それが、そう小さく鳴く。
 ――藤色の、水饅頭……?
 細い月の光を浴びて、つるりと艶やかに光るそれは確かに、小さな小さな藤色の水饅頭らしきものだった。
 時計で時間を確認することさえ忘れて、枕元から携帯電話を取り上げた正晴は、瞳を水饅頭に固定したままで早苗の携帯へ電話をかける。しばらくコール音が続いた後、
「もしもし? どうしたの?」
 早苗の眠たそうな声が携帯越しに聞こえた。
「今、水饅頭が……」
 とぎれとぎれに何とか状況を説明する。その間も、淡い藤色の水饅頭は幽かな声で歌い続けている。
「じゃあ、今からそっちに行くね」
 少々混乱しているらしい正晴の説明に、早苗はそう告げる。動揺していた正晴は、その言葉で少しだけ我に返った。
「あ、いや、ごめん。夜だし危ないから俺が行くよ。……望月ん家の裏の公園に、着いたら電話する」
 電話を切って、時計を確認する。午前零時をわずかに過ぎた頃だった。
 こんな夜中に電話してしまったことを申し訳なく思いながら、しかし、状況は急を要しているのだと自分に言い訳をして、大急ぎでパジャマを着替え、顔を洗って出かける準備をする。その間も水饅頭の軽やかでどこか楽しそうな歌声は部屋の中に響いていた。身支度を終え、歌っている水饅頭をティッシュで軽く包んでシャツの胸ポケットに入れると、正晴は自転車に乗って早苗の家を目指した。

 全力で自転車を漕いで早苗の家の裏にある公園に着くと、早苗は既に公園にいて、正晴に手を振った。
「電話するって、言ったのに」
「うん。でも、すぐ来ると思ったから」
 正晴の心配をよそに、早苗は軽く笑う。そして思い出したように。
「それで、水饅頭は?」
「あ、うん。ここに……」
 言いながら胸ポケットから丸まったティッシュを取り出して開く。
 ……ぐったりと溶けかけた水饅頭がそこにあった。
「ああっ!」
 あまりのことに声を上げ、慌てて耳を澄ますと、幽かにではあるが「きゅきゅきゅ」という鳴き声が聞こえて、正晴は深く安堵の息を付いた。しかし、ぐったりしている状況には変わりない。おそらく熱に弱いのだろう。正晴の体温に負けてしまったに違いない。そう判断して、公園の隅にある水道まで移動し、水饅頭にそっと水をかけた。心地よい冷たさの水が、正晴の手と水饅頭を濡らし、光らせる。十分に水をかけて濡らしてから、近くにあった紫陽花の葉を一枚もいでベンチに置き、その上に水饅頭をのせる。
 固唾を呑んで見守る正晴と早苗の前で、何度か小さく震えた水饅頭はやがて、夜に響く小さな声で歌を歌い始めた。
 二人はほっと胸をなで下ろす。透き通るため息のような歌声が、キラキラと輝きながら夜に溶けていく。
 綺麗ね、と早苗が呟いた。
 艶やかな藤色の水饅頭に、爪のような銀の月が映り込んでいる。
 心の奥にまで染みこんでくるような歌声。
 指先で触れると、途切れる歌のかわりに、小さく「きゅ」と鳴く。
 そのすべてが、正晴にとって、なんだかとても嬉しかった。

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