[Novels]

【水饅頭と月にうたう】 其の五
 五、奏でる夜と沈黙の朝

「なんか最近ご機嫌じゃん?」
 昼休みに、焼きそばがびっちり詰まった弁当を食べながら、陽一が言った。
「ん?」
 家から持ってきたおにぎりのラップを剥がして、正晴は答える。
「違うのか? 珍しく昼飯も作ってきてるし」
 最近はいつも、水饅頭の優しい歌声で目が覚める。ちょうど眠りが浅くなってくる時間に耳に滑り込んでくるのだから、目覚めはとても良い。必然的に朝の時間に余裕ができるので、正晴は水饅頭の歌声を聴きながらご飯を炊き、ふりかけを混ぜておにぎりを作ってきていた。
「人生に張りがあるって感じ?」
「んー。実は今、結構幸せかも」
「へぇ?」
 陽一は意外そうに目を見開いたが、特にそれ以上の追及をするでもなく、
「良いねぇ。俺は最近、ヴァンパイアの噂を聞かなくてがっかりだってのに」
 拗ねたように言って焼きそばを頬張る陽一に、正晴は思わず笑ってしまった。

「休みがあると、気分も違うわね」
 次第に満ちてくる月の下、長い黒髪を風になびかせてセーラー服姿の華南が呟く。
「そうね。明日は学校も休みだし」
 掌に水饅頭の入ったカップを持って、傍らで夜風が頷く。
「……まさか連れてくることになるとは思わなかったわ」
「だって……。華南は毎晩一緒にいられるから良いかも知れないけど、私だってもう少し、水饅頭と一緒に居たいんだもの」
 華南だけずるいわ。と、わずかに口を尖らせる夜風に、
「夜風がそうしたいっていうなら、別に構わないけど」
 夜に浮かび上がる紅い唇に笑みを浮かべて華南は言う。その言葉に夜風も微笑んだ。
 街を彷徨い、絡まる神を見つける。慣れた手順で追いつめて、紫紺の神針で絡まった神を剥がす。そうして夜風が、柔らかな歌声で神を送る。
 夜風の透き通るような囁く歌声に、掌の水饅頭がささやかに歌声を重ねる。
 ひんやりと月の光が降り注ぐ夜。静寂と、歌声と、そして、空へと登っていく薄紫の靄、絡まりを解きほぐされ、天へと帰る神。すべてが柔らかく重なる和音となって華南を包み込む。
 ――こういうのならば、悪くない。
 夜風と水饅頭の溶けあうような歌声に耳を傾けながら。華南はそっと目を閉じた。
「なぜ、神は人に絡まるのかしらね」
 神送りの帰り、家の近くの公園でブランコに揺られながら華南がふと呟く。
 流れる雲の隙間から、月が現れてはまた隠れる。ぬるい季節の風が、華南と夜風のスカートをふわりと揺らして通り過ぎていく。
 ご機嫌に歌声を響かせる水饅頭を膝の上に抱えて、夜風は空を見上げた。
「わからないけど……。私は、神は人間を哀れんでくれているのだと思うの」
「哀れむ? どうして?」
 華南の問いかけに、夜風は幽かに微笑んだまま、ゆっくりと小さく首を振った。
「本当のことは、私にはわからないから……」
 それだけ答えて、夜風は水饅頭の歌に、自分の歌声をそっと重ね合わせる。
 神は、生きることに疑問を抱くものに囚われ、絡まるのだという。
 ――生きることに。
 心の中で、繰り返す。
 生きている意味などわからない。知りたいとも思わない。だってそもそも、そこに意味など無いのだから。
 華南は――正晴はそう思っている。けれども、意味を求めている人間は数多くいる。
 ――求めすぎて、見失って、捕らわれてしまった人間に、神は絡まるのだろうか?
 ――神は、なぜ絡まるのだろうか?
 傍らから流れ、耳に、夜に、世界のすべてに、ゆるやかに染みこんでいくような歌声と、流れゆく雲の行方に。正晴はいかに今まで、自分が剥がしている神について何も考えていなかったかを思い知る。
 ――無気力と言うよりも、無関心だったな。
 空を仰いで、自分自身に苦笑する。
 地面を蹴って、ゆっくりとブランコを揺らす。小さく軋む音が、歌に絡まる。
 柔らかく降り注ぐ月明かりの下で。早苗と、水饅頭と、その歌声の隣で夜を感じる。
 ゆるやかに流れていく時間。傾きはじめる月の光を睫毛に受けながら。
 この穏やかで透明な時間がいつまでも続けば良いと、正晴は思った。
 ――たとえ今のこの瞬間に、意味など存在していなくとも。
 明日も明後日も、そしてその未来まで、この歌声とともにあれれば良い。
 まだ朧気で不安定な心で、けれども確かに、そう思う。
 そんな正晴の思いを、夜の風が、ささやかな歌声とともに空に巻き上げていった。

 ◇

 朝。いつもよりも遅めに目を覚ました正晴は、ふと違和感を覚えて、眉間に皺を寄せた。
 水饅頭の歌が聞こえない。
 いつもであれば、朝の光の中で陽気に響いているはずの、その歌声が今日はない。
 じわりと沸き上がる不安を押さえつけて、出窓に駆け寄り、水の入ったスープ皿をのぞく。
 水饅頭の姿は、そこには無かった。ただ、白い皿に満たされた水だけが、きらきらと、小さく光を反射していた。
「水饅頭?」
 声を出して呼べども、返事はない。
 目を見開いてもう一度探し直すと、スープ皿の陰に、小さな半球型のおはじきの様なものが転がっているのが目に入った。朝陽を反射して、淡い藤色の光を揺らす、おはじき。
 根拠などなくとも、本能と直感で、これは水饅頭だとわかった。
 それはもう、確信だった。
 わけもなく震える手で、正晴はおはじきを拾い上げる。
 ひんやりと冷たくて、固い。ガラスみたいな、丸いおはじきだ。
 もう一度、震える声で呼びかける。けれどもやっぱり返事はなかった。
 しばらく、掌にのせたまま、じっと見つめていたけれども。
 結局、水饅頭はその後、一度も歌うことはなかった。

 早苗に電話をするでもなく。泣くでもなく。ただ正晴はずっと、水饅頭を眺めていた。
 ふらふらとキッチンに移動して、水をかけてみたりもした。
 氷を浮かべたお皿に、そっとつけてみたりもした。
 けれども、水饅頭はもう、震えることも泣くこともなかったし。歌いもしなかった。
 水饅頭だったものを掌にそっと握りしめて。ぼんやりと壁にもたれる。
 穏やかな日射しが射し込む部屋は、光に満ちていて、時折、柔らかな風が、真っ白いレースのカーテンをゆっくりとひらめかせた。
 どのくらいそうしていただろうか。気が付けば、太陽は高く昇っていて、それとともに部屋の中に溢れていた光は窓の外へと引いていた。
 インターフォンがのどかに、どこか現実味のない音を立てた。
 しばらくの間をおいて、もう一度、音が鳴る。そして早苗の、控えめな呼び声がドア越しに届いた。
 ふらつく足取りで扉を開ける。笑顔で立っていた早苗は、正晴の様子にふと笑みを消した。
「どうしたの……?」
 問いかけに、俯いたままで掌を開く。正晴の手の中で、艶やかに光る、固くて冷たい藤色の粒が、ころりと転がった。
「ああ……」
 すべてを悟ったような声で、早苗が呟く。
 ただ唇を噛みしめて立ちつくす正晴の、その掌に自らの手を重ねて、早苗は無言で正晴を抱きしめた。
 
 銀色の光が、正晴と早苗を冷たく照らし出している。
 言葉もなく、正晴は早苗の胸に抱かれていた。細い指が、正晴の髪を優しく撫でる音が、月明かりだけ漂う部屋に小さく響く。
 ――水饅頭は、死んでしまった。
 冷たく固く、ちっぽけな塊になってしまった。もう、歌うことも鳴くこともない。
 それでも美しいのは何故なんだろうか。
 こんなにも心が軋むのは、何故なのだろうか。
 ――だって、生きていることになんて、意味はないんだろう?
 ――この水饅頭が、何をしたわけでもないだろう?
 掌の中の水饅頭の亡骸は、正晴の体温と混じって、もう、その存在さえも感じられなくなってしまっていた。
 ただ、固い抜け殻だけが、ここにある。

 ――死んでしまった。

 正晴は、初めてそれを実感した気がした。



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