[Novels]

【水饅頭と月にうたう】 其の六
六、十三日月と帽子の店主

 早苗は、正晴の頭を胸に抱きながら、窓から覗く空を見上げていた。
 月が出ている。白銀のアーモンドを思わせる十三日月。
「十三夜……」
 思わずこぼした早苗の言葉に、正晴は目を開いた。
 ゆっくりと体を起こし、何かを思い出すように、月を見上げて。そして、立ち上がる。
「行くの?」
 早苗の問いに、正晴は頷いた。
 水饅頭だったものをポケットに入れて、何も持たず、早苗と二人で外に出る。
 黒く夜に沈むアスファルトに、街頭と月の二つの影が落ちている。
 ポケットに手を入れて、つるりと冷たくなった水饅頭を握り締めて、正晴は足早に歩き出した。目指すは、あの小さな公園。一月ほど前に水饅頭の苗を買った、あの露天商が店を広げていた場所。
 出会える保証はどこにもなかったけれども。なんとなく、この月夜ならあえる気がして、正晴と早苗は急いだ。
 焦っているからか、小道を入り間違えたか、なかなか公園にたどり着くことができない。月はそうしている間にもゆっくりと空へ登っていく。
 やはり、もう巡り会えないのかも知れない。
 心に過ぎる不安をむりやり払いのけて。何度か道を進んでは戻り迷う。
 そのうちに、やっとあの露天商を見つけた。
 水饅頭の苗を売っていた、あのチューリップ帽をかぶった店主も、変わらぬ姿でそこに居た。
 走りよって声をかけると、店主は一瞬不思議そうに首を傾げ、それから驚いたように、
「ああ、藤色の……。いやはや、男の子だったのか」
 そう呟いた。
 そのまま黙り込む店主の前にしゃがみ込み、正晴はポケットから、冷たく固い、水饅頭だったものを取り出した。
「水饅頭なんだけど……」
 どうしても震えてしまう声で、辛うじてそう言葉にしながら、店主の前で掌を開く。その水饅頭の亡骸を見つめて。
「すごいな。きちんと種になったか」
 店主は厳かな声で言った。
「……種?」
 正晴の後ろに立っていた早苗が繰り返す。
「そうだ。これは水饅頭の種だ。たいていは、ここにいたる前に枯れたり力尽きたりするんだが。……立派な種になったな」
 あまり抑揚のない声に、かすかにうれしそうな響きを含ませて、店主は言う。
「梅雨に入る頃に、やわらかい土に植えてやるといい。タイミングが合えば、芽がでて、また苗になるさ」
「また、水饅頭に、……なる?」
 沸き上がる思いに、声が出せなくなっている正晴の代わりに、早苗が確認するように問う。
「もちろんだ。苗にするまではちょっと難しいけどな」
 うまく育てれば、また、水饅頭ができる。
 ――水饅頭は、死んだのではなく、種になったのだ。
 また生まれてくるための、手段として。
 それは当然のように、優しく、正晴の心に溶けてゆく。
 世界が滲んでいくのを、慌てて堪えて立ち上がった正晴に。
「大事に育ててくれてありがとうよ」
 帽子を目深にかぶり直しながら、店主はぽつりとそう言った。
 止まらなくなってしまった潤みを、何度も手の甲で拭う。
 早苗の掌が、優しく正晴の頭を撫でた。
 美しく、銀色に輝く月光の下、掌に乗せた、藤色の種を見る。
 その輝きは、空に登る神を見送る、早苗の穏やかな眼差しに似ていた。



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