[Novels]

【天使の翼】
 シフォンのベールを思わせる柔らかな春風が、みずみずしい若草色の海原を、さわさわと細波を立てながら通り過ぎてゆく。
 薄く霞のかかるだだっ広い草原の片隅に、ぽつりと建つどこか寂しげな教会の白壁は、綺麗に磨かれ、濡れてきらきらと光っている。
 その教会の礼拝堂で、アリーシアはひとり、床に跪いて十字架に祈りを捧げていた。
 遠くで、鳥の渡る羽音が聞こえる。
 正面のあかりとりから差し込む柔らかな光が、艶やかに磨き込まれた木目の床を、眩しく切り抜いている。
 風が草原を走る。その音を聴きながらしばらく無言で祈りをささげ、アリーシアは顔を上げた。
 ゆっくりと、杖をついてぎこちない足取りで立ち上がり、わずかに片足を引きずるようにしながら教会の中を移動する。そして、礼拝堂の側面に飾られた壁画の前までくると、足を止め、その絵を真剣な眼差しで見上げた。
 細くたなびく白い雲と、金色の空。その空に、純白の羽を広げ神々しく輝きながら浮かぶ天使たち。穏やかな笑みを浮かべ。軽く柔らかなベールを纏い。自由に空を舞う、天使たち。
 アリーシアは壁画を見上げたまま、切ないため息を漏らす。
 この絵を見るために、アリーシアは毎日、片道約一時間の距離を歩いて教会に赴いていた。
 天使の像を見るために。
 そして、叶わぬ夢とどこかで知りつつも、神に翼が欲しいと祈るために。
 切り取られた光の中に、アリーシアの影が落ちている。
 光を浴び、繊細な光沢を帯びる銀色の髪の毛が、開け放たれた扉から迷い込んできた風にふわりと揺れた。
「いらしてたのですね」
 澄み渡る湖面を思わせる静かな声に、アリーシアは振り向く。
「神父様」
 ふと微笑みで表情を和らげ、優雅なしぐさで会釈をするアリーシアに、神父と呼ばれた青年は小さく首を振った。
「アリーシア。私はまだ見習いの身でしかありません」
「たとえ見習いでも、神父様は神父様ですわ」
 笑顔で応えるアリーシアに、つられて青年も困ったように笑う。それから思い出したようにまじめな顔をした。
「そういえば、また熱を出されたと聞きましたが。もう大丈夫なのですか?」
「……ええ」
 とたんに表情を曇らせて、アリーシアはうつむきながら小さな声で応える。
「お恥ずかしい話です。些細なことですぐに熱を出してしまうなんて」
「そんなこと」
「いつも、ご心配をおかけしてしまってすみません。でも、もう大丈夫ですから」
 まっすぐに視線を上げて、アリーシアは大丈夫を強調しながら、精一杯の笑みを浮かべる。
 けれどもその笑顔に無理があることなど、見習い神父である青年の目からも明らかだった。
 アリーシアは生まれつき、身体も弱い。
 医者の話によると、病気に対する抵抗力が弱いのだという。それ故に、ほんの少し身体が冷えたり、疲れたりするだけで、高い熱が出てしまうのだ。
 元気に外を駆け回ることなど、もともと叶わぬ身であった。
 そしてそれに追い討ちをかけるように、暴走した馬車の車輪に巻き込まれ、杖なしでは歩くこともままならなくなってしまった。
 彼女の胸のうちを思うと、青年はいつも、自分の無力さに深い嘆きを覚える。
 彼女が儚い笑顔で強がって見せるたびに、彼は、彼女を抱きしめたい衝動に駆られ、戸惑う。
 彼女の願いを聞くたびに。
 翼がほしいと聞くたびに。
 彼は、自分の中に沸き起こる葛藤を知るのだった。

「彼女はもう、長くないだろうな」
 笑顔で手を振って、教会を後にするアリーシアの後姿を見送っていると、いつの間に現れたのか、長いブロンドの髪を後ろでひとつに束ねた神父が、青年の後ろでそう言葉を漏らした。
 険しい表情で振り返る青年に、神父は事も無げに言葉を続ける。
「あと半年といったところだろう。今夜あたりまた、熱を出す」
「……簡単に、おっしゃいますね」
 苦々しく吐き出される青年の言葉に、軽く片眉を上げ、
「事実だ」
 一言そう言うと、何事もなかったかのように教会の奥へと消えていった。
 沈みゆく日に、ゆるやかに金色を帯びてゆく草原を見つめながら。
 青年はゆっくりと唇を噛みしめた。

 アリーシアはその晩、神父の予言どおりに再び熱を出した。
 柔らかく温かなベッドの上で、時折苦しげに眉をひそめて寝返りを打つ。
 母親が額にのせてくれた濡れタオルも、既にぬるくなってしまった。
 アリーシアは、自分の命がもうあまり長くないことを自覚していた。
 仕事の関係で不在がちの父も。そして、いつもやさしい母でさえ、もう、その悲しみへの抵抗はとっくにあきらめてしまっていた。
 無理もない。と、アリーシアは思う。
 父も母も、疲れてしまっているのだ。あまりにも病弱な自分の面倒を見ることに。
 いっそのこと、早く両親を楽にしてあげたいとさえ思ってしまう。
 押し寄せる苦痛の波に喘ぎながら、アリーシアはそれでも無意識に、心の中で手を伸ばす。
 教会の壁に飾られた、天使の壁画。
 一度でいい。ただ一度でいいから、この背に、その純白の翼を得たい。
 そして、この空を、走ることの叶わぬこの身体で、自由に空を駆けてみたい。
 風を切って、空を飛ぶ。どんなに気持ちがいいだろう。
 うつろになっていく意識の中で、何度も何度も願う。
 苦しげな呼吸とともに、何度目かの寝返りを打ったアリーシアの枕もとに、ひとつの影が降り立ったのは、真夜中を少し過ぎた頃だった。
 既に沈みかけている月を背に、影はゆっくりとした動きで、手を伸ばす。
 そして、白い指で彼女の額に触れた。
 汗でへばりつく前髪をそっと指先でかきわけて。手のひらで額を包み込む。
 アリーシアの表情が次第に和らいでいく様子を見届けてから、青年はアリーシアの体をやさしく揺り動かして彼女を目覚めさせた。
「……神父様?」
 まぶたを開き、アリーシアはかすれた声で呟く。
 その問いに静かな笑みで応えて、背中に純白の羽を持った青年は、軽々とアリーシアを抱きかかえた。
「神父様、翼が……?」
 驚きながらも、その腕から落ちないように青年の首に手を回してしがみつくアリーシアの額に、無言のままそっと口付けて、青年は開け放たれた窓から、勢い良く夜空へと駆け上がった。
 ばさりと大きく音を立てて広がる、月明かりを反射して眩しく光る純白の翼。
 きらきらと小さな瞬きを繰り返す星たちに追いつくかの勢いで、みるみる高度を増してゆく。
 汗で湿った髪を、夜風が心地よく撫でてゆく。
「一緒に、飛ぼう」
 穏やかで優しい青年の声に促されて、アリーシアは青年の首から手を放すと、青年と手を繋ぎ、両腕を広げた。
 ぱさりと、背中で音がする。
 振り返れば、アリーシアの背にも、大きな白い翼が生えていた。
 喜びに、声にならない声をあげる。
 軽やかに浮かび上がる体を、何度も宙に翻して。
 月と星の明かりだけが降り注ぐ夜の空を、どこまでもどこまでも、アリーシアは青年と二人で駆け回った。

 明るい朝の陽と、小鳥のさえずりで、アリーシアは目を覚ました。
 熱が引いた朝特有の、けだるさの混じったふわふわした体をゆっくりとベッドから起す。
「……夢?」
 乾いた喉が、かすれた声を出す。
 呟いて、アリーシアは愕然とした。
 ああ。なんて美しい。そして、同時に残酷な夢だっただろうか。
 肌をすべる風の感触も。手のひらに残る、青年の手のぬくもりも。
 すべてすべて、夢だったというのだろうか。
 なんて優しい。そして、なんて辛い夢。
 動きの鈍い足を、ゆっくりと床に下ろし、深い深い吐息を漏らしたアリーシアは、足元にひとひらの白い羽が落ちていることに気づいて動きを止めた。
 まさか。
 唇だけをそう動かして、震える手を伸ばす。
 指先で拾い上げると、しっとりと滑らかで、光沢のある柔らかな羽が、アリーシアの吐息でふわりと揺れた。
 鳥の羽よりもしなやかで、神々しいほどに艶やかな、純白の羽。
「夢じゃ、なかった……?」
 呟くと同時に溢れ出してくる涙も流れるままに、アリーシアは懐に、一夜の軌跡を抱きしめた。
 
 さわさわと、みずみずしい若草色の海原が細波を立てている。
 だだっ広い草原の片隅にぽつりと建つ、どこか寂しげな教会の礼拝堂で、念入りに床を磨く青年の背後から、長いブロンドの髪を後ろでひとつに束ねた神父が声をかけた。
「……昨晩、羽をみせただろう」
 一瞬びくりと肩を震わせて、見習い神父である青年は恐々と神父を振り返る。
「ばれないとでも思ったのか?」
「いえ……。申し訳ありません」
 うつむいたまま首を振る青年を、無表情に見下ろして、しかし神父は何かを言うでもなく、何事もなかったかのように再びきびすを返す。
 あかりとりの窓から差し込む金色の光が、神父の背中に輝く大きな純白の羽を浮かび上がらせている。
 その姿をもの言いたげに見送る青年を振り返ることなく。
「そんなんだから、お前はいつまでたっても見習いなんだ」
 神父はそっけなく、しかしどこか優しさを込めた声でそう呟いた。


... ... ... END.
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