[Novels]

【昔々、彼が猫だった頃】

 その店には、大きな水出し珈琲のドリップと、小さなサイフォンがひとつずつ置いてあって、日がな一日、ポタポタコポコポと不思議な音を立てていた。
 入って右手のバーカウンターには五つの椅子と、左手には二人がけのテーブルが二つ。
 店主を合わせても十人しか入ることのできない店に、いつもいるのが、彼だった。
 彼はいつも、店の一番奥で、カウンター席に肘を突いて座って、飽きることなく水出し珈琲の砂時計に似た琥珀色の時の流れを眺めていた。
 艶やかな真っ黒の、柔らかそうな髪。細くてしなやかな肢体。
 温めにあたためた水出し珈琲を、舐めるように少しずつ飲む様子はとても猫に似ていて。
 店主が彼を「クロ」と呼ぶのは道理だと、妙に納得したことを覚えている。
 彼は、外見はどう見ても少年のようだった。
 実は少女だったということではなく。彼の紡ぎ出す言葉とは裏腹に、外見はとても幼く見えた、ということだ。
 体が小さいせいかもしれない。バーの椅子に腰掛けている彼は、いつも足をぷらぷらと宙に揺らしていて、それが一層、幼さを感じさせていたのかも知れない。
 ちらりとこちらを見て、また来たのかという目をするのを店主が見とがめて、「クロ」とたしなめられては、ふいと顔を背ける様子もまた、とても猫に似ていた。
 実際、彼は昔、猫だった。
 少なくとも、彼はことあるごとにそう明言したし、店主もそれを否定はしなかった。
 昔々、彼が猫だった頃、まだ店主は生まれていなくて、店主のひいおじいさんがその当時にしてはハイカラな珈琲店を細々と運営していたのだという。
 日露戦争が始まる頃だった、と、当時を思い返して猫であった彼は言った。
 決して激流ではなかったはずなのに、流れゆく時に、抗うことの難しい時代だった。
 彼はいつも、目を伏せてそう言った。
 不思議と、彼の言葉を疑う気にはならなくて。
 それもきっと、彼の雰囲気が、本当に猫のようだったからだろうと、今にしてみれば思う。
 目を閉じれば、カウンターにつっぷして眠る彼の背中に、ゆらゆらと揺れるしっぽが見えるような気がするのだ。
 耳はおそらく、店主の奏でる食器のふれる音や、珈琲を注ぐ音に誘われてぴくぴくと動くのだろう。
 もちろん、実際にそういった風景を目にすることは、あるはずもなかったけれど。
 彼はひどく気まぐれで、話しかけてくる時はいつも唐突で。こちらから話しかけても無視されることもしばしばで。かと思えば、何気ない言葉をよく覚えていたりした。
 思い出したように語って聞かせてくれる話は、ほとんどが店主のひいおじいさんとの思い出話で。そして話の最後はいつも「それに比べて此奴(こいつ)と来たら……」と、ため息混じりに店主を見上げた。
 店主はそれを、笑って受け止めて。そして、温くあたためた水出し珈琲を、そっと彼の前に差し出すのだった。
 昔々、彼が猫だった頃、店主のひいおじいさんはまだ生きていて。
 彼は、カウンターの上で、丸くなって眠っていた。
 彼はその頃から、水出し珈琲の、ポタポタと琥珀色の雫が落ちていく音が好きだった。
 今でも彼の話は鮮明に心に残っていて。まるで、この目で見てきた風景であるかのように、記憶の中から呼び覚ますことができる。
 わずかに、二年前の話だ。
 今はもう、記憶の中にしか存在しない、小さな珈琲店での風景だ。
 しばらく仕事に忙殺されて足を運べなくなっている間に、店は跡形もなく消えてしまっていて。
 それから一度も、店主と彼の姿をみかけることはなかった。
 近所のたばこ屋のおばあさんの話によれば、店主の体調が優れなくなって、田舎に引っ越すことになって。そして、店と土地は治療費のために売り払われたのだという。
 噂だけどね、と、おばあさんは言った。
 本当のところは、誰にもわからないのだという。
 ただ、ぽっかりと穴の空いたように更地になったそこには、確かに以前、小さな珈琲店があって。
 昔々、彼が猫だった頃から、そこにあって。
 そして今では、聞いたこともない名前の会社が入った、小さなビルが建っている。
 たばこ屋のおばあさんからは、どうやら店主は亡くなったらしいという話をきいた。

 決して激流ではなかったはずなのに、流れゆく時に、抗うことの難しい時代だった。
 彼はいつも、目を伏せてそう言った。
 水出し珈琲の、砂時計に似た琥珀色の時の流れをいつも眺めていた彼は、いつか、こんな日が来ることを、知っていたのかもしれない。
 なんとなく、訳もなく。
 ただ、ふっと、彼はきっと、猫に戻ったのだろうと思った。

 そして僕は、小さな喫茶店の前を通るたび、柔らかな珈琲の香りを感じるたび、水出し珈琲を飲むたび、彼のことを思い出す。
 黒くしなやかで気まぐれな。
 琥珀色の雫が落ちる合間に、こっそりと店主を眺めて目を細める。
 猫であったという、彼のことを。



... ... ...END.


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