[Novels]

【尖塔より愛を込めて - 08】
 ビュン
 と、空気の重たく歪む音が、吉村の耳元をかすめた。
 反射的に避けた吉村の瞳に、揺れる白衣が映る。視線の先には、怪しく光を反射する黒縁眼鏡。赤いネクタイがやけにその存在を主張している。
 先ほど吉村がファイルで殴り倒した、キテレツな元高校部教師の復活であった。
 そう言えば存在を忘れていたな。
 吉村がそう思った。その瞬間。
「!」
 軽度の火傷を負った肩が、湿った風に撫でられて痛んだ。
「うははははっ!」
 その一瞬の隙をついて、再びファイルを振り下ろす元教師。容赦なく、吉村の肩にファイルを打ち付けると、痛みに膝を突いた吉村を三谷に向かって押し飛ばし、立ち上がりかけたひなたを肩に担ぎ上げて、窓の外で滞空していたピンクのカバに飛び乗った。
「えええ!?」
 突然の状況に、なされるがままのひなたをのせて。カバがゆっくりと窓から離れる。
 厚い雨雲に覆われている空の下。
 ひときわ低い音を立てて、飛び去るピンクのカバを引き留めるかのように、雨が降り出した。
「水城!」
 窓に駆け寄り、池の塔に向かって飛んでゆくピンクのカバを、睨むように目で追いながら、吉村が叫ぶ。
 その声に、水城は身を翻して給湯室の奧へと消え、すぐにまた戻ってきた。
「今はこれしか無いわ」
 どこからか持ち出してきた「これ」を床に置きながら水城が言う。
「これは?」
「J.D.サリンジャー要改良型よ」
 はっきりキッパリ明言する水城に、
「J.D.サリンジャー……。要、改良型……」
 三谷が視覚的情報と聴覚的情報を照らし合わせ、すれ違う情報を懸命に摺り合わせるかのように復唱する。
「改良済み完成品は無いのか?」
 咎めるような響きを込めて問いかける吉村に、水城は自信を持って「無いわ」と答えた。
「やむを得まい。三谷、乗れ」
「え!?」
 弾かれたように顔を上げて、相手を見つめ返す三谷に。
「俺よりお前の方が軽いだろう。飛距離の問題から考えて、三谷の方が適任だ」
 有無を言わさぬ勢いで、吉村が言う。
「ちょ、待った。それだけは勘弁してください。イヤですよ。いい年こいて三輪車なんて」
 ぶるぶると首を振り、三輪車である「これ」から後ずさる三谷。その腕を引き留めて、水城が説得にかかった。
「四の五の言っているヒマはないでしょう? 池の塔までたどり着かれたら、逃げられちゃうじゃない。ここは真反対の森の塔、しかも12階なのよ? 通常手段だったら、追いつけるわけがないでしょう?」
「いや、でも」
「非常事態なのよ。乗りなさい」
「だって、そんな」
 こんな小さな三輪車で、どうやってあのカバに追いつけというのか。水城が持ってきた「これ」を横目に、三谷は泣きそうになりながら、ただ、ぶるぶると首を振り続けた。
 「これ」は、どう見ても、子供用の三輪車だった。
 通常の三輪車と違う部分があるとすれば、サドルと後輪の、3点の中心部に、でかい噴射口のようなものがついていることと、ハンドルにブレーキがついていることだ。
 三輪車は普通、バックができる。漕げば進むし、やめれば止まる。そういう仕組みだ。したがって、ブレーキは必要がない。
 だとしたら、あれは何なんだ。三谷は心の中で叫ぶ。
「雨が降り出してるのよ! 一刻を争うのよ!」
 乗りなさい。そう言って詰め寄る水城の横から、
「もういい。俺が乗る」
 吉村が三輪車に手をかけた。
「水城。操縦方法を教えてくれ」
 バランス良く、小さな三輪車にまたぎながら吉村が水城を見上げる。
「ハンドル右手のアクセルでジェット噴射」
「それから?」
「……それだけ」
 それは確かに、要改良型だな。さすがに苦笑いを隠せずに、吉村が呟く。
「最後にもう一つ」
「何?」
「J.D.サリンジャーの、正式名称は?」
「ジェット・デンジャラス・三輪車」
「……よくわかった」
 深くため息をつく。
 そして、思い出したように胸ポケットを軽く叩いてから、そこに本来あるべきものがきちんとあることを確認した上で、吉村は真っ直ぐに外を見据えた。
「あれは、屋内型なんだったな」
 遠くに揺れるピンクのカバを見つめて、欠陥部分を理解した様子の吉村に、
「池の塔までは持つだろうけど。相当高度は下がると思うわ」
 水城が神妙な面もちで答えた。
「三谷。お前は走って追ってきてくれ。あの馬鹿教師の始末を頼む」
 そう指示して、呼吸を整える吉村。
 噴射に巻き込まれないように三輪車から離れながら、水城と三谷は緊張した表情で発射を見守る。
 握るアクセル。
 響く爆発音。
 軋むタイヤの音と。
 今一度大きく響く、ジェット噴射の爆音。
 白い煙だけを残して、ジェットでデンジャラスな三輪車ことJ.D.サリンジャー要改良型が、勢いよく窓から外へと飛び出していった。

つづく
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使用お題
15 「それだけは勘弁してください。イヤですよ。いい年こいて三輪車なんて」

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