[Novels]

【尖塔より愛を込めて - 09】
 飛んだというよりも、ぶっ飛んだという表現の方が正しい。
 体中を激しく打ち付ける雨と、呼吸さえも奪うような風圧に何とか耐えながら、三輪車の上で吉村は思う。
 弧を描く余裕も無いのではなかろうかと思うほどの高速で、三輪車が城の前を大きく横切っていく。
 眼鏡をかけていたのは幸いだった。この雨の中でも、目を開けていられる。通常なら雨の滴で視界が遮られてしまいそうなものだが。凄まじいまでの風圧を前にして、雨粒さえも一瞬で後方へとすっとばされていく。
 一体時速何キロの速度で自分は今、空を切っているのか。さすがの吉村にも判断できなかった。
 ただ、三輪車から吹き飛ばされないように、かつ、バランスを崩して失速、墜落しないようにするのが精一杯だ。
 そんな状況にありながらも、吉村は考える。
 勢いで飛び出して来たまではいいが。果たして、向かう池の塔の窓は、開いているのだろうか、と。
 池の塔は、音楽室や美術室といった特別教室の他に、解剖部や機械化学部などの部室、教材置き場や書庫などが入っている。職員室や学長室などのある森の塔とは違い、常に人がいる保証はどこにもない。
 窓を突き破るのは、さすがに御免こうむりたい。窓にぶち当たって失速の後、池に墜落というギャグ漫画の顔負けの展開も、願い下げである。
 開いている事を祈ろう。もし開いていなかったら。……それはその時考える。
 その間、僅か数秒。肩の痛みはテンション故か、今は感じない。
 目の前に、ピンクのカバが見えた。
 その影も、一瞬で後方に遠ざかる。
 必死の形相でカバを励ましている(ように見える)白衣と。
 J.D.サリンジャーの風圧に髪を煽られながらも、驚いた表情でこちらを見ているひなたの姿を瞬間的に捕らえた吉村は、迫り来る池の塔の、幸いにも開いている窓に向けて神経を集中させた。
 風の音が、耳を擦る。
 吉村が、三輪車を蹴ってわずかに後方へと飛ぶ。
 窓枠に当たってひしゃげる三輪車。
 慣性の法則が作用するままに、窓から部屋の中に飛び込んだ吉村は、窓枠でスピードを殺し、空中で体制を整えると、迫る壁に垂直に両足をつき、まるでゴムボールが壁に当たって跳ね返るような滑らかさで、一回転して床に着地した。
 ゆっくりと立ち上がって、長い息を吐く。
 風圧で乱れた髪を手ぐしで軽く整えながら、今しがた飛び込んできた窓から外を眺めると、眼下の池に、無惨に解体された三輪車の残骸が浮かんでいた。
「さすがに、ちょっと無謀だったかな」
 思わず苦笑する。運良く窓が開いていたから良かったようなものの。
 もし運が悪ければ、今頃、吉村も池に浮いていたことだろう。
「高揚しすぎた」
 そうひとりごちながら、視線をあげる。
 雨で煙る先に、ピンク色の影が見える。
 不安定にゆらゆらと揺れるピンクの影は、次第に高度を落としつつも、順調に塔に近づいて来ていた。
「……あと4階分は下がるな」
 目測で辺りをつけ、そう呟いた吉村は、到着予想地点に向かって教室を後にした。

 雨は瞬間的に激しさを増し、容赦なく降りしきっている。
 顔にまとわりつく髪を、苛立たしげにかきあげて。
「くそ、まさか水溶性だとは思ってなかったぞ」
 白衣の元教師は、次第に色あせていくボディと、頼りなく溶けはじめている羽に向かって、悪態を付いた。
 池の塔まで、あと少し。そこまでもってくれれば良いのだが。
 ちらりと背後を見やると、無理矢理さらってきた少女も、心配そうにカバの羽を見つめていた。
 その不安げな表情に、意味もなく胸が高鳴る。
 雨に濡れ、水滴をしたたらせる髪が、白い頬に張り付いている様は妙に色っぽく、元教師は慌てて少女から目を離した。
 少女の事は、知っている。中等部の頃から目をつけ……いや、マークしていたのだ。次の〈ストレイシープ〉総領は、この少女になるであろう。と。
 元教師の野望は、この西遠学園という名の城を手に入れることである。
 その目的の為にも、校内の自治を取り仕切っている〈ストレイシープ〉と生徒会は、是非とも抑えておきたい要であった。
 さらって、連れ帰って、説得なり洗脳なりしようと目論んでいた元教師だったが。
 しかし。雨に溶かされて、揺れながら失速していくカバの上にあっては、もはや、連れ帰った後の事まで考えている余裕など、持ちようもなかった。
「落ちたら死ねる……」
 無意識に、そう口にして。元教師は自分で自分に舌打ちした。
 どんどん高度が下がっていく。
 羽音は次第に、異音を含むようになってきている。
 あと少し。あと少しで塔にたどり着く。
 もってくれ。墜落だけはやめてくれ。
 この際、着水でも構わない。とにかく池までもってくれ。
 羽の回転音が、あきらかに遅くなってくる。それに反比例するように、ドキドキと心拍数が上がる。
 あと少し。
 もう少しで、6階辺りの窓にたどり着く。
 窓が開いているのが見える。
 メキメキと、カバのお尻が嫌な音を立て出す。
 一際大きく、カバが揺れる。
「きゃぅ」
 後ろで少女が小さく叫ぶ。
 カバの爪が、窓枠にたどり着く。
 何とか、何とか間に合った!
「ゴール!」
 元教師が感極まって叫ぶと同時に、ガクンとカバが失速する。
「ご無事で! さあ、早く九条さんをこちらへ!」
「うむ。すまない」
 誰かが伸ばした手に、少女を託す。
「ん?」
 ワリワリっと、謎の音を立ててカバの下半身が折れて池に落ちていく。
 慌てて窓枠に飛びついた元教師の頭上に、
「さすがに、そのまま落ちてはくれませんでしたか」
 冷ややかな声が落とされた。慌てて視線をあげる。
「吉村! 貴様、いつのまに……!」
 吉村の顔を見上げて、元教師は奥歯を噛んだ。
「つい先ほど。あなたの横をすり抜けて飛んできました」
「馬鹿な」
「困ったことに、事実です」
 雨を含んで重くなった白衣が、残酷な程、元教師の両手を苦しめる。
「懲りない人ですよね。クビになって、少しは大人しくなったと思いきや」
 呆れたような、哀れんでいるような、どちらとも言い難い表情で、吉村が言う。
「なぜ、いつもいつも邪魔をする!」
 元教師が、忌々しげに吐き捨てる。
「……あなたが、何かと俺の学園生活を邪魔するからでしょう」
 人のせいにしないでいただきたい。深くため息をつき、吉村が言葉を続ける。
「この学園に妙な手出しをする限り、あなたにとって、さよならだけが人生だ」
「なに……?」
「西遠学園において、あなたの人生は常に、さよならで満たされることでしょう。そういうわけで、さよなら。二度と来なくていいですよ」
 穏やかな口調で、しかし容赦なく手を外しにかかる吉村。
「うああ、やめろ。落ちる!」
「心配しなくても、ここは池の塔ですから。落ちても死ぬことはないですよ」
 無表情で告げる。
「まあ、泳げなかったらおぼれ死ぬだろうけどね」
「くそっ。うおりゃぁっ」
「!」
 元教師が、最後の力を振り絞り、壁を駈け上がる要領で、勢いよく窓へとしがみついた。
 にじりにじりと、上半身から窓枠にのしあがり、ふと、ひなたに目を向ける。
 しぶといなぁ。と、軽く感心して眺めている吉村の横で。
 元教師は軽く微笑むと、謎の言葉を呟きながら、窓に足をかけた。
「たとえこの世界の果てにいても、会いに行くよ……私の舞姫」
「……」
 瞬間、穏やかな笑顔のままで、吉村が顔面に食い込むような蹴りをたたき込む。
 眼鏡がみしりと嫌な音を立てた。
「あああああぁぁぁぁぁぁ」
 大げさな断末魔が響く。
 その声に、どっぽーん。という大きな水音が終止符を打った。
「誰が誰の舞姫か」
 見下ろす吉村の視線の先で、白衣をふよふよと水面に漂わせながら、元教師は泳いで岸へとたどり着く。
 駆けつけた三谷が、岸上からその様子を見ている。
「私は、私は諦めないぞ。私はこの城の覇者になるのだ。ふふふへへ……がぼっ」
 力尽きて沈みかける元教師を引き上げながら、三谷は吉村を見上げると、真剣な面もちでこう叫んだ。
「会長! 俺に、この人、解剖させてください!」
 好きにしろと、手をひらめかせて返事をし、ひなたを振り返る。
「あの、」
「怪我は?」
「あ、ありません。大丈夫です」
「面倒なことに巻き込んですまなかったね」
「いえ……。あの」
 吉村がまともであることに戸惑いながら、ひなたは首を振る。
 先ほどまでのおかしな言動は、自分の幻覚だったのではないかと思えるほど「正常な」吉村が目の前にいる。ひなたはそれを、ちょっと寂しいと感じている自分に気づいて、我ながら呆れた。
 ひなたの背後から、足音が聞こえてくる。
「騒ぎを聞きつけて、側近が来たかな」
 扉を見ながら吉村が言う。
「トップに立つものは、もう少し堂々としていた方が良い。不安を見せると、まわりもそれに感化されてしまうからね」
 次第に弱くなってくる雨の音に混じって、吉村のやわらかな口調が、優しく、ひなたの耳に届く。
「少々傍若無人なくらいでちょうと良い。それが、フォローしてくれる周囲に対する信頼の表現になることもあるからね」
 わかったかな? というようにのぞき込まれて。ひなたはコクコクと頷いた。
 その様子を、満足げな笑顔で見つめてから。
「それじゃ」
 あっさりと手を振って吉村が扉に向かうのと同時に、その扉から勢いよく〈ストレイシープ〉幹部が部屋に飛び込んできた。
 見えなくなった吉村の背中を、しばらくぼんやりと眺めながら。
 もしかしたら、先ほどまでのおかしな言動もすべて、自分を励ますためのお芝居だったのだろうかと、ちょっと無理なことを考える。
 いずれにしても、やっぱりよく分からない人だ。と、高鳴る胸で思いながら。
 大丈夫でしたか? とたずねてくる幹部の、その必死の形相に。
 ひなたは笑って、心からありがとうを告げた。

 水を飲んでぐったりしている元教師を見下ろして。
「解剖の許可が出たよ。解剖部初の人体解剖だよ」
 言い聞かせるように呟く三谷の後ろから、声がかかった。
「いかんよ。無意味に生き物を傷つける行為はいかん」
 重々しい口調でそう告げながら現れたのは、学園長だった。
「命あるもの、すべて。いたずらに傷をつけてはいかん。人間、生きるためには否応なく、望むと望まざるとに関わらず、他者の命を奪って生きているのだから」
 そうだった。と、三谷は我に返る。だからこの学園の解剖部は、解剖した後、食べられるものしか解剖しないのだ。せめてもの償いとして。
「と、まあ、それらしいことを言ってみたのだがね。難しいことはどうでもいいのだ。ぶっそーな事はいかんよ」
 打ってかわってお茶目な口調と笑顔で、ロマンスグレーの学園長が言う。三谷はこのギャップにもまた憧れる自分に気づき、ふと、そういえばチャコちゃんはどうしたんだろうと思い出した。
「ああ、学園長。すみません、お騒がせしてしまって」
 いつのまにか降りてきた吉村が、駆け寄ってきて学園長に声をかけた。
 水も滴るいい男。すっかり雨も上がった空から、降り注ぐ陽の光が、より吉村を爽やかに仕立て上げている。
「いやいや。大事ないならそれで良い」
 上品な笑顔で答える学園長に。
「ちょうど良かった。学園長にお渡ししたいものが」
 そう言って、吉村は、胸ポケットから小さなガラスケースを取り出した。
「おおお! チャコちゃん!!!」
「りょ、両生類!?」
 のぞき込んだ三谷と、受け取った学園長の声が重なる。
 そんなにゴロゴロ両生類が居るのか、この学校……。と、思わず遠い目になっている三谷をよそに、学園長と吉村は穏やかに会話を続けている。
「ありがとう、吉村君。どこで見つけてくれたんだね?」
「高等部生徒会室に迷い込んでいました。一応、空気穴を開けて、中には湿らせたガーゼも入れておきましたので、問題ないとは思いますが。……ちょっと長い間、俺の胸ポケットにいたので、元気かどうかは今ひとつ」
「ありがとう、ありがとう。いや、もう、見つからないかと思ったよ」
 いやぁ、本当に良かった。
 心底嬉しそうに、何度もそう良いながら、学園長は軽やかなステップで校舎へと向かう。
 途中、思い出したように振り返って。
「牧田君。無駄にあがくのは君の自由だが。何をどうがんばったところで、この城は、私と、私の可愛い生徒達のものだからね。君にはあげないよ」
 渋い声で、白衣の元教師に告げた。
「諦めない。諦めないぞ。うう……」
 突っ伏して肩を震わせている元教師を見下ろして。
 吉村と三谷は、やれやれと肩をすくめた。

「……」
 森の塔12階。その高等部生徒会室の窓から、望遠鏡を使って池の塔の様子を見ていた水城は、吉村が渡したガラスケースの中身に、眉をひそめた。
 さすがにはっきりとは見えなかったが。あれは、イモリのように見える。
 会話までは聞こえないことを歯がゆく思いながら、水城は給湯室を振り返った。
 しばらく考えてから、給湯室に向かい、蓋つきのゴミ箱をのぞき込む。
 紙ゴミに混じって、だらりと伸びている白い物体を、今一度つまみ上げて。
「やられた……」
 水城は低く呟いた。
 熱いうちは、やわらかくて気づかなかったが。
 白く伸びた茹でイモリは、今や、すっかり固くなっている。
 それは、どこからどう見ても、プラスチックでできた、イモリのフィギュアだった。

つづく
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使用お題
9 「くそ、まさか水溶性だとは思わなかったぞ」
30 「ゴール!」
12 「さよならだけが人生だ」
13 「たとえこの世界の果てにいても、会いに行くよ……僕の舞姫」
10 「この人、解剖させてください!」

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