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【雷鳴 / 後編】
 少女が立ち去った後も、久河はしばらく立ちつくしたまま雨に打たれていた。
 伝えたいとあふれ出す思いは、その強さゆえに、胸の奥でうまくかたちにならない。
 激しい雨音は久河の心の中をより一層乱し、まとまりかけた思考は、その雨とともに、容赦なく地面へと流されていった。
「優秀な営業マンが、聞いて呆れるよ」
 虚しさを含んだつぶやきも、雷鳴にかき消された。

「いつまで、そこに立ってるの?」
 セーラー服の少女が、傘を差し出しながら言った。
「ああ、君は……」
 振り返った久河は、傘を受け取ろうと伸ばした手を、ふと止めた。
「ありがとう。でも、もういらなそうだ」
 ずぶぬれになっている体を見せるかのように、手をひらひらと広げる。
「でも、私も2本もいらないし。久河さん、差すだけさしててよ。要は格好だし」
「そういうもんかな」
 笑って傘を受け取る。雨を遮ってみると、すでに濡れきっているにもかかわらず、確かに落ち着いた気分になった。
「それにしても、最近よく会うね」
「……そうだね」
 微妙な間で、少女が答える。
 傘に当たって跳ね返る、まばらな雨の音が、小さな傘の中でこだまする。
「何故、人を殺しちゃいけないのかな」
 ほとんど独り言のように、久河が言う。
「篠目に聞かれたの?」
「あの子、篠目っていうのか」
「軽間堂の」
「うん。なぜ、人を殺してはいけないのか。君は、知ってる?」
「殺しちゃいけないなんて決まりは無い。ってことなら、知ってる」
 久河が、眉をひそめた。
「でも、私は、殺さない。人を殺すという行為に、善も悪も、正も誤もありえない。それ以前のレベルの話だよ。それは多分、人間の知恵だと思うから」
 まっすぐに、雨でかすむ世界の、その果てを見据えて。
「誰かが悲しむから。それもまた、理由の1つ。でも、それだけじゃないよね。理由はたくさん、あるよね。だから、久河さんも、急にたずねられたら即答できない」
 にやり、と、笑ってみせる。
「法律で決まっているから。それはそう。でも、問題はそこじゃない。何故、法律で定めたか。そこを考えようとしないから、篠目は馬鹿なんだ」
「人間の、知恵、か」
 久河は、繰り返してつぶやいてみる。人間が生きていく上で、編み出してきた知恵の1つ。
「……あれ?」
 考えながら、久河はなにかひっかるものを感じて、少女を見た。
「あ、雨、弱くなってきたかな?」
 その視線をわざと避けるかのように、空を見上げて少女が言う。
 激しかった雨は、次第に弱くなり、立ちこめていた暗雲も、薄明かりをたたえた雲と入れ替わっていた。
「彩音ちゃんさ……」
「何?」
「篠目っていう子とは、どういう関係?」
 前髪からこぼれ落ちる雨の滴を払いながら、たずねる。
「秘密」
 いたずらっぽく笑って、傘を閉じる。
 すっかり明るくなってきた空の、その雲の隙間から、光がベールになって降りてきた。
「虹でもでないかな」
 言いながら、挨拶もなく立ち去っていく彩音の後ろ姿を眺めていた久河は、その姿が遠くに止めてある車に消えるのを見届けてから、思い出して傘を閉じた。
「傘、返しそびれたな」
 苦笑いをしながら、つぶやく。
 見上げれば、柔らかな光。その隙間から、こぼれるように、乳青色の空が見える。
 冷たい風を額に感じながら、久河はゆっくりと家に向かって歩き出した。



.. ... ... ...END.
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