[Novels]

【迷路】
 些細なきっかけで迷い込んだ迷路というものは、些細なきっかけで、簡単に出口が開けるものだということは、良く知っている。
 けれども、その出口へと導いてくれる些細なきっかけが、都合良くすぐに現れるとは限らないのもまた、良く知りうる事実でもあり。
 そのときの私は、ちょうどその、出口は見えているのにたどり着けない迷路の真っ直中にいる気分だった。
「だから、仕方がないだろう」
 私を迷路に放り込んだ相手が、うんざりした口調で言った。
「仕方がない、って、そういう言い方ないでしょう?」
「仕方がないものは、仕方が無いじゃないか」
「そんな、だって、2ヶ月も前から約束してたのに」
「じゃあ何か? 有香梨は俺に、学会を休めっていうのか?」
「誰もそんなこと言ってないでしょ!?」
 電話越しに伝わってくる苛立ちに触発されて、思わず声を荒げてしまう。
「だったら、どういうことだよ」
 つられて、相手も更に不機嫌な声になる。
 ああ、なんて悪循環。このまま会話を続けても、迷路の奥へと突き進むだけだ。
「もう、良いわよ」
「なんだよ、それ」
「だから、もう良いわよ。仕方がないんでしょ? そうよね、学会だものね。のんびり温泉旅行になんて行ってる場合じゃないわよね」
 そんなこと、よく分かっている。
「何だよその言い方」
「だから、わかったから。もう、電話、切るから」
「ああ、そうかよ、勝手にすればいいだろう」
 何でそこで、あんたが怒るのよ。
 そう思いながら、一方的に電話を切った。
「最悪」
 お風呂から上がったばかりの、まだ生乾きの髪をくしゃくしゃとかきむしる。
 どうしてこう、うまくいかないのだろう。出口はすぐそこにあるのに。
 どうして、気付かないのだろう。ただ一言、「ごめん」とさえ行ってくれれば、私はこんなにも深い迷路に、わざわざ嵌りこんだりしないのに。
 ただ、会いたくて、会えなくなったことが悲しくて、それだけなのに。
「ばか彰人」
 彰人は、旅行がつぶれて悲しくないのだろうか。私に会えなくて、寂しくないのだろうか。
 寂しいはずだ。悲しいはずだ。それは、わかる。けれども。
 だったらどうして、それを言葉にしてくれないのだろうか。
 お互いの思いは、お互い同じくらい深いものだと、実感させてくれないのだろうか。
 こんな時、心底お互いを隔てる距離が妬ましく思える。近くにいれば、言葉さえなくても、空気で、肌で、瞳で、いくらでもその思いを実感できるのに。
 そう思うと、悲しさに泣けてきた。
 さびしい。あなたに会えなくて、心から、さびしい。
 下手すると大泣きしてしまいになるのを堪えて、気晴らしにビールを取りに台所へ向かった。途中、部屋でぼんやり座り込んでいる妹を見かけて、はやく風呂に入れと促した。
 いつかかってきても良いように、携帯はずっと、手の中にある。
 けれども結局その後、フォローの電話は無く、私はその夜、携帯を握ったまま、空になって転がったビール缶の横で眠った。

 夜が明けて、目を覚ませば、目の前に迷路の出口が。
 なんてことを期待して朝をむかえたものの、見事に期待はずれに終わった。
 おかげで、いつもなら真面目に聞くはずのお気に入りの講師による講義も、まったく上の空で、時間だけが容赦なく過ぎた。
 メールくらいよこせ。
 時間とともに、苛立ちが募る。
 ああ、出口が遠い。
 講義終了のチャイムが、私をあざ笑うように響いた。
 足取り重く、講義棟を後にする。その横を、講師が足早に走り抜けていった。
 些細なことで迷い込む迷路。その深い深い迷路から抜け出す技を、私は知っている。
 けれども。
 本当は私は待っている。彼が、この迷路を抜けて、私を救い出してくれることを。
 いつでも、本当は、待っている。
 ああ、実は彰人も、私を待っているのだろうか……?
 この深い深い迷路の奥で、私が訪れるのをずっと。
 彼もまた、互いを隔てる距離に、不安を覚えているのだろうか。
 今の私が、そうであるように。
 
 私は携帯を開き、慣れた動作でリダイヤルを押した。
 ふいに前方から、聞き覚えのある着メロが響く。
 顔を上げると、彰人がこちらに歩いてくるのが見えた。
 どこか気恥ずかしそうな、やわらかな笑みを浮かべながら。


 ... ... ... END.


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