[Novels]

【青空】
 永遠にこのままで。そう、願うこともしばしば。
 けれども、世界は容赦なく変化していくから。否応なく、僕らも変化せざるを得ない。
 進化を望むか、退化して滅びるか。世界にはこの二つしか選択肢がないかのような、一種の絶望が蔓延っている。
 進化しないこと。それはすなわち、イコール退化にあたる。周囲が進化していく世界において、進化をしないものは、相対的に見て、退化していることと同じだからだ。
 そういう理由で、僕らは、訳がわからないままに、無理矢理変化しようとあがいている。
 進化をしようと焦って、自分の望みと逆行したりして。

 体中で風を受ける。
 スカートの裾を翻して、風が体を抜けていく。
 頭上には、突き抜けるような青空。
 屋上から見上げる空はあまりにも近すぎて 、落ちてしまいそうなほどに深く、青い。
 5階建ての校舎の、本当は立ち入り禁止になっている屋上の、更に上にある給水塔に立って、早夜莉は大きく深呼吸した。
 水曜日だけの、ひとときの解放。
 早夜莉の足下では、今、職員会議が繰り広げられている。先生に見つかって叱られる心配はない。給水塔に登ってしまえば、角度的にちょうど校庭からも見えない。ここは早夜莉だけが知っている、早夜莉だけの聖域だった。
 まっすぐ前を向くと、小さく並ぶ屋根の向こうに青黒く連なる山脈が見える。山脈から吹き下ろす風はまだわずかに冷たく、夏がまだ遠いことを感じさせた。この風が暖かくなる頃には、本格的に、受験のための最後の追い上げが始まる。
 そう、既にスタートは切られていて、既にもう、トップスピードにのっている状態で、更なる追い上げを必要とされる。そういう時期が。
 思わずため息をついている自分に気付き、あきれ気味に自嘲する。
 まだ、風は辛うじて春の香りを残したままだ。
 大丈夫。まだ、まだ時間はある。まだ間に合う。今ならまだ。まだ。
「ああ、いかん」
 つぶやいて、眉間を手のひらで押さえた。最近すぐ眉間にしわを寄せてしまう。余裕がないのだと思う。
 自分は、何に向かって生きているのか。自分は、この先、どうやって生きていきたいのか。ここのところずっと、そればかりを考えている。昔から、おぼろげには考えていたことだが。人生の決断を迫られている今、その問いはより一層強く、早夜莉に迫ってくる。
「…………」
 先にあるべきものは何なのか、何を求めるべきなのか、わからない。
 ゆっくりと手を伸ばす。開いた指の隙間から、空の青が睫にこぼれ落ちてくる。
 目標を持て。夢を持て。真剣に生きろ。
 押しつけられる言葉は、聞き飽きるどころの話ではないほどに、ひどく無神経だ。
 夢を持って、目標を持って、真剣に走っていった先に、暗闇しか待っていなかったら、どうするの?
 この、あまりにも不安定な世界で。どうして明日が、未来が明るいと、信じられるの?
 この青い空が、明日も変わらずに青い保証なんて、どこにもないのに。
 風が前髪を滑り抜けてゆく。
 風の向かう先を振り返る。
 遙か彼方まで続く、建物の海。この海の底で、自分は大人になって生きていくのだろうか。
 そんなことを、自分は望んでいるというのだろうか。
 誰が、望んでいるというのか。
 じわりと額に滲む汗に耐えきれず、早夜莉は給水塔から駆け下りた。
「!」
 突然、駆け下りた先に予想していなかった人影を見つけて、早夜莉は思わず悲鳴を飲み込んだ。
 驚いたのは相手も同じらしく、何とも表現しがたい妙なポーズで硬直している。
「き、岸本……? 何してんの?」
「何って……、お前こそ何してるんだよ」
 尋ねられて言葉に詰まる。
「私が、先に聞いたんだけど」
 無理矢理質問を返すと、岸本はしばらくの間の後に、
「空を見てたんだよ」
 と、ひとことだけ答えた。
 その答えがあまりにも素直で、早夜莉はなんだか不思議な気持ちになった。
「ここ、立ち入り禁止なんだけど」
「人のこと言えねぇだろが。っていうか、良いんだよ。バレなけりゃ」
 半ば投げやりに言いながら、そっぽを向く。
 風が、二人の横を駆け抜ける。
「空、見てるとさ」
 ふいに岸本が口を開いた。
「もしかしたら、自分の求めているものが何か見えるんじゃないかって、思えたりすんのな」
 ま、実際は空は何も答えちゃくんないんだけどね。そう言葉を続けながら、岸本はそのまま屋上から立ち去っていった。

 水曜日。早夜莉は例のごとく、給水塔の上で空を見ていた。
 頭上に広がる空は、次第に夏色を帯びはじめている。最後の戦いはもう目の前だ。
 上等。
 早夜莉は声に出さずにつぶやいた。
 戦えというのなら、全力で戦おう。そのための準備は、十分にしてきたつもりだ。
 たとえその先に待ち受ける世界が、美しく明るいだけのものではなくても。
 たとえ戦いで得たものが、その後の世界において全く役に立たないとしても。
 おそらく、そんなことは、たいした問題ではない。
 この、足下に広がるビルの海に。その底に、沈んで生きることもまた、あり得るだろう。
 けれども今は、まだ、確信がある。
 この空の向こうに。まだ見ぬ、自分の望む未来が待っていること。
 明確な答えは、まだ無いけれど。
 風が吹いている。
 前髪を揺らし、スカートを滑り、屋上を回って空へと戻っていく。
 すべての人の思いを受けて。きっと、この空は青く、深く、広がってゆくのだ。


 ... ... ... END.


← Back

[感想フォーム]