[Novels]

【無題SS - 03】
 職員室を出た所で、予鈴が鳴った。
 心のざわめきは、まだ治まる様子がない。
 ざわめきの向こうで、何度も彼の仕草が再生されて、私は少し戸惑った。

 まだ水の滴る髪の毛を、左手で無造作に撫でつけながら。
 海に落ちたのだという彼は、言葉を続けた。
「一度、家に戻って着替えたいんだ」
 言葉をきり、眼鏡をはずし、海水で曇ったレンズを無造作にシャツで拭く。
「ただ、立場上、無断遅刻は避けたい」
 拭いた眼鏡を、ゆっくりとかけ直す。
「生徒手帳、持っていたら貸してくれる?」
 話の流れがわからないまま、延ばされた右手に生徒手帳を渡した。
 すらりとした指が、それを受け取る。
 
 ざわめきが、止まらない。
 彼の、動作のひとつひとつが、やけに鮮明に蘇って見える。
 彼の輝きは、非日常の、海の輝き。
 今、私はおそらく、その輝きを彼に垣間見ているのだ。

「2年8組、東爪歩さん」
 生徒手帳の名前を読み上げて。
「安曇先生に、軽い事故で遅刻する旨、伝えてもらいたい」
 よろしく、と、カバンを手渡されて。
「あ、あの」
 展開についていけない私に、
「東爪さん。俺が学校に着いたら、生徒手帳をお返しするよ」
 そう言い残して、足早に立ち去っていった。

 生徒手帳を人質にされた。
 そう気付くのに、しばらくかかった。
 
 ざわめきが止まらない。
 落ち着かない気持ちを抱えたまま。
 言われたとおり、彼の担任に伝言とカバンを渡して。

 繰り返す。彼の言葉。彼の仕草。
 彼はなぜ、海に行っていたのだろうか。

 その日、彼が教室に生徒手帳を届けに来るまで。
 私の頭の中は、彼のことでいっぱいだった。

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