[Novels]

【無題SS - 06】
 言葉が、冬の雨みたいに冷たく、体に染み込んでいく。
 そんな錯覚に陥って、私は無意識に身震いした。

 無駄だから。と、確かに彼はそう言った。
 海に非日常を求めるなど、無駄なことだと。
 なぜ?
 何が、無駄だというのだろう。
 そもそも、思い違いをしているとは、何のことだろう。

 冷たさで指先が麻痺していくかのように、頭の中まで痺れるような感覚に包まれながら、
「どういう意味、ですか」
 ほとんど独り言のように言った私の声に、彼は小さくため息をつく。
「ここで説明するのは、ちょっと難しい」
 そう答えて、彼はしばらくの間、無言で眼鏡のフレームを指で押さえた。

 彼は、海に、何を求めているのだろう。
 私と同じかもしれない。そう思ったのは、間違いだったのだろうか。

 夕日が少しずつ朱色を帯びてゆく。
 海の輝きは、移ろいで、それでも尚、美しく光る。
 彼の中で。
 
「東爪歩さん」
 何かを決心したように、指を眼鏡から離して。
「はい」
 呼ばれた声に、私は小さく答えた。

 人気の少ない図書室に、様々な音が散らばっている。
 紙のめくれる音。
 ペンがノートの上を滑る音。
 誰かのささやくような話し声。
 そんな、かすかなざわめきの中で。

「来週の月曜日、いつもよりも40分早く、家を出られるかな?」
 彼の声が、私に届く。

「え?」
 言葉の意味を、受け取りそこねている私に。
「海に、連れて行ってあげるよ」
 その言葉はゆっくりと、彼から私に手渡された。

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