[Novels]

【無題SS - 08】
 潮風がわずかに頬を吹き抜ける。
 淡い空の青を、鈍く映した灰青色の海。
 ちゃぷちゃぷと、テトラポットを撫でる波の音が小さく響く。
 その波の音に混じって、幼い日の私の声が、聞こえた気がした。

 彼方で滲む、水平線に。
 朝の陽を湛えて、たゆたう波に。
 心の中の、ざわめきが薄れてゆく。

 沸き上がってくる、この思いは何だろう?
 悲しみにも似た、鈍い、痛み……。

 しばらくの間、海を前に、ただ立ちつくしていた私に。
「君の、望み通りの海かな?」
 彼が、穏やかな口調で尋ねた。
「わからない……」
 答えながら。けれども首を横に振る。

 海に来れば、何かが変わると、そう、思っていた。
 なかば、思い込むように。
 非日常の海によって、日常の、退屈な鎖は断ち切られるのだと。
 信じていた。けれども……。
 何かが、違う。
 求めていたものとは、少しだけ、違う。
 そんな気がする。

 私の思いを感じ取ったかのように。彼はどこか悲しそうな笑顔を浮かべた。
「君は気付いているんだ」
 ゆっくりと、瞬きをして。
「日常も、非日常も、同じ現実であるということに」

 風が吹き抜ける。海風。朝の、爽やかな風。
 海はいつだって、ここにあった。
 海は憧れであって、変化を求める私のきっかけであって。
 変化、そのものではあり得ないのだ。

 彼は、知っていたのだ。
 知らず知らずに私が海に求めていたものを。

 それが、逃避であることを。

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