[Novels]

【雪の降る街】
 それでも、時間になれば列車は走るし、
 走り出した列車は、止まることは無いのだ。
 ――辿り着くまで。その先まで。


 冷たい空気を纏った街は、白く憂鬱な雲で覆われていた。
 重苦しい印象を受けるこの雲はきっと、街の人々のため息で出来ているのだ。今、自分が吐き出したこの白いため息もまた、あの雲に溶けて混じって。だからこんなにも憂鬱になるのだ。
 そんなことを思いながら、私は一人、家に向って歩いていた。体を包み込む斬りつけるような冷気に、思わず首をすくめてマフラーに顔を埋める。
 足取りは重い。
(理解に苦しむなぁ)
 自分の心の中なのに、他人事のようにそう思う。
 憂鬱になることなど何も無いはずなのだ。それどころか、むしろ浮かれていたっておかしくはない。
 目指す音楽大学の推薦入試、その最後の難関である実技試験も、今終えてきた。
 自分で言うのもおかしな話だけれど、入学決定はほぼ間違い無い。実際、楽しく演奏できたし、大学の先生も4月が楽しみだとおっしゃった。
 だから。何も不安になることなんて無いのに。
『人生、間違ったかな』
 ふいに兄の言葉が頭を過ぎって、私は慌ててぶんぶんと頭を振った。
 人生を間違えるなんてそんなこと、あるはずがないと思いたい。
 けれども、自分が望んで向った先が、必ずしも自分の求めていた場所であるという保証が、いったいどこにあるというのだろう?
 兄のように。自ら望んだ未来にその身を置きながら、疲れ果てた体をソファーに沈めて、誰も居ない部屋で後悔を口にしないという保証が、私にはあるようには思えない。
 私もいずれたどり着いた先で、同じようにため息をもらすのだろうか。そう考えると、未来に向って延び始めた道へと、足を一歩踏み出すことがひどく勇気の要ることのように思えてきた。
 ため息。心の奥からもれるように吐き出してから、もう一度、振り払うように頭を振る。無理矢理顔を上げると、目の前を白い花びらがひとひら、ふわりと舞い落ちてきた。
 見上げると、前髪に、まつげに、頬に、ゆっくりと冷たい花びらが降り注ぐ。
「雪だぁ」
 思わず声に出して呟く。
 憂鬱な空から、ため息たちが白く冷たく、美しい結晶になって降ってくる。そして、街にふれて、とけて消えてゆく。
 憂鬱な雲が、結晶化されて、浄化されて、街を包みはじめる。
 鼻先に触れて溶けてゆく結晶を見つめていると、訳もなく心が軽くなっていくような気がして、私は無意識に、頭に浮かんだ歌を口ずさんだ。
 昔、兄に借りて聞いた曲。滅多に邦楽は聴かなかったけれど、そのバンドの曲だけは何故か、歌詞を覚えてしまうくらい良く聴いた。たしかユニコーンとか言ったけ。
 ゆっくりと音を消していく街。慌ただしく流れる車の群れを横目に見ながら、いつも通る歩道橋を渡る。
 ――僕らの街に 今年も雪が降る
 心の不安を白く覆い隠してゆく雪。歩道橋の上から見下ろす街は、待ちかねていたかのように降り始めた雪を受け止めている。憂鬱に汚れた街は、雪に癒されるのを待っている。
 きっと、私も同じ。
 歩道橋から街を見下ろしたまま、歩きながら口ずさむ歌。
 ――あと何日かで 今年も終わるから
「たまには二人で……」
 続きを歌いかけて。でも人とすれ違った気配がして、私は慌てて振り返った。
 紺色と白の、ウインドブレーカー。自分と同じ、高校生の男の子。その彼が、驚いたような表情でこちらをみている。
(聴かれた……?)
 恥ずかしさのあまり、顔が紅くなるのを誤魔化すように笑って、私は急いで男の子に背を向けてた。走りたい衝動を、なんとか抑えて、急ぎ足でその場を立ち去る。
 去り際に、男の子が微笑んだような気がしたけれど、当然ながら直視できなかったので、本当のところはよくわからない。
 ただ、火照って熱を帯びた頬に、冷たい雪が心地よくて。
 少しだけ、幸せな気分になった。

 ※

 兄は相変わらず忙しいらしく、私が眠った後に帰ってきて、私が起きる頃に家を出る。
 それでも、毎朝なんとか「いってらっしゃい」とパジャマのまま送り出す私に、笑顔で「いってきます」と答える。最近は、その笑顔にも疲れが隠せないでいるけれど。
 その日も、いつものように目が覚めて部屋から出ていくと、ちょうど兄が玄関で靴を履いているところだった。
「おはよう」
 私をみつけて、兄が柔らかい笑顔で言う。
「おはよう。昨日も帰りは遅かったの?」
 何気なく言ったつもりだったのだけれど、どうも少し咎めるような口調になっていたようで、兄は僅かに困ったような笑顔を返した。居心地の悪い沈黙が数秒駆け抜ける。
「そういえば、実技試験の結果、もうすぐ出るな」
「うん」
 家にいる時間は短いのに、小さな事までよく覚えてるな、と感心しながら、同時に仕事もこんな感じで小さなところまで優秀なんだろうなと思う。
「4月からは、寂しくなるな」
 突然ぽつりと言われて、言葉に詰まった。
「寮生活か。少し不便かも知れないな」
 しみじみと、遠くを見つめるように言う兄に、慌てて言葉を返す。
「まだ、合格かどうかはわからないよ」
「お前は合格してるさ」
 とても静かなひと言だった。再び言葉に詰まっている私に、いつものように笑顔で「いってきます」と告げて、兄は家を出ていった。
 色々な感情が心の真ん中あたりで絡まっていて、なかなか言葉がみつからない。
 一番簡単にほどけた糸は、感情とはあまり関係なくて、すごくどうでもいいようなことで。でもそれ以外にほどけそうな糸が見あたらなかったので、私は半ば投げやりに、それを声に出して呟いた。
「いってらっしゃいって、言いそびれた……」

 高校3年生の12月ともなると、授業らしい授業はまったくもって無くなってしまう。
 通っているのが音大付属の女子校なので、専ら受験対応の実技カリキュラムが中心になり、個人レッスンが増える。クラスの友人と無駄話をすることも、極端に少なくなる。レッスンの時間がバラバラなので、いつも一緒に帰っている友人と、時間の都合が合わないこともある。
(少し、寂しい……)
 レッスンが割り当てられていなかった私は、仕方なく一人で先に家へと帰りながら、どうにも不安定な気持ちでいっぱいになっていた。
(何がそんなに、怖いの?)
 自分自身に問いかけてみるものの、明確な答えは出ない。
(未来に保証などないことが? でも、そんなの当たり前じゃない?)
 いつもの歩道橋を渡りながら、小さくため息をつく。
 今日は雪が降っていないから、家までずっと、この沈んだ気分のままかな。と、重い足で歩いていたら、
「あの歌好きなの?」
 突然、目の前から声をかけられた。
「え?」
 驚いて顔を上げると、おぼろげに見覚えのある顔の、制服を着た男の子が立っていた。
(でも、誰……?)
 疑問が顔に出たのかもしれない。その男の子は私の顔をじっと見てから言った。
「歌。この前ここで歌ってたろ?」
「あ」
 思いだして、顔が紅くなるのがわかった。
「この前の……」
 あの時はウインドブレーカーだったから、印象が違っていてわからなかった。
「聞こえた。で、俺もあの歌思い出してたからさ。グッドタイミングってやつ?」
 眩しい、でもどこか深い湖みたいな青さを秘めた笑顔で見つめられて、心臓がどきりと音を立てた。
「雪が、あまりにも綺麗だったから……」
 答えながら、名前も知らない相手に何を言ってるんだろうと思って、恥ずかしさに声が小さくなった。
 ナンパかもしれないのに。最近、この辺で多いって聞くし。
 でも……。なんとなく、嫌じゃない。
「ロマンチストなんだ?」
「そういうわけじゃないけど。ちょっと気が晴れて開放的になったというか……」
 それで歌を歌っちゃうなんて、変な女だと思われただろうか。
 一瞬、そんな不安に囚われた私に微笑みかけて、
「こんな寒い日で太陽も満足に見えなけりゃそりゃ気も滅入るよな。実は俺もあの雪で気が晴れたクチ」
 男の子は空を見上げた。
 つられて見上げた空は、灰色にくすんでいて、相変わらず私を憂鬱な気分にさせた。今日は雪は降っていないから。
 雪さえ降れば。
「不安で空いた隙間を、雪が覆い隠してくれるから」
 独り言のつもりだったけれど、男の子の耳にも届いたようで。
「やっぱりロマンチストだ」
 どこか楽しそうに、でも決して嫌な感じではない笑顔で彼が言った。
「じゃあ俺は、都会の排気ガスに紛れてサヨナラするよ」 
 軽く手を挙げて、私が何も言わないうちに、彼は去っていった。
 風みたいな人だと、思った。

(都会の排気ガスに紛れて……)
 彼の残した言葉を心の中で繰り返す。
 彼はきっと、この街で。このため息の雲で覆われた憂鬱な街で、きっと、深い青さを保ったまま、強く生きていくのだろう。
 なんて、素敵なのだろう。
 それに比べて自分は、ただ、きっと、怖くて逃げたいだけなんだ。
 ただ、浄化されたがっているだけなんだ。なんて卑怯者。
 絡まっていた糸が、少し、ほどけたような気がした。
 初めて言葉を交わした、彼のおかげで。
 彼の笑顔を思い出すと、雪に似た心地よい冷たさを頬に感じた。



 歩道橋であの男の子と言葉を交わした数日後、私は合格通知を受け取った。
 4月から、望んでいた音大で、寮生活をしながらピアノの技術を身につける。
 不思議と、実技試験の日に私を捕らえていた不安は、もう無かった。
 多分、あの男の子にあって、少しだけ、前向きになったのだろう。
 できることならもう少しゆっくり、あの男の子と話がしてみたい。
 でも、よく考えたら名前も知らなくて、連絡なんて取りようもなくて、偶然を期待するより他になさそうだと、がっかりしながら冬休みまでを過ごした。
 3学期になって、歩道橋の近くを通る時は、いつも、あの男の子の姿を探してみたけれど、結局話をすることはできなかった。
 何度か見かけることはあった。何度かというか、正確には2回。でも、なんだか友達と話が盛り上がっていそうだったし、いざ見つけてみると、友人が一緒にいるせいもあって、話しかける勇気がでなかった。
 ただ、ちらりとだけ視線を交わしただけで、そのまますれ違って。
 そうこうしているうちに、学校へは行く必要がなくなり、入学や寮生活の準備などで忙しくなってきて、あの男の子のことを考える時間は、あまり、なくなってきていた。


「本当は駅まで見送りに行くべきなんだろうけど。ごめんな」
 慣れた手つきでネクタイを結びながら、本当に申し訳なさそうに兄が言った。
「いいよ。家に居て見送ってくれるだけで、充分だよ」
 私を見送るために、午前中だけ会社を休んでくれた。それだけで充分だった。
「自分で選んだ仕事だからな。あんまり適当なことはしたくないんだ」
 ごめんな。と、もう一度繰り返す。
 望んだ未来にその身を置いて。時には弱音を吐くこともあるけれど、それでも自分で選んだ未来だと。兄は言えるのだ。
 兄と、あの男の子は、似ている。
「盆と正月には戻ってくるんだろ?」
「うん。お父さん達も、帰ってくるんでしょ?」
「そうらしいけどね」
 あの夫婦だから、どうだろうね。と冗談っぽく笑って。
「いってらっしゃい」
 いつもと同じ笑顔で送る兄に、「いってきます」と笑顔で答えて、私は家を出た。

 街は相変わらず、憂鬱な雲に覆われている。
 不安が無いと言えば嘘だ。不安だらけだ。
 あの男の子のように、兄のように、強くはいられない。
 でも、がんばって行きたいと思う。自分が望んだ未来に向けて。
 まず、辿り着かなければ、話にならないし。
(がんばろう)
 駅の改札を抜けながら、心の中で呟く。
 ちょうど良いタイミングでホームに滑り込んできた電車に乗り込みながら、結局、あの男の子と話ができないままだったことを思い出した。
 もう出発なのに、今更気付いたって仕方がないのに。
 でも、会いたかった。会って、色々と話がしたかった。
(変なの)
 ただ一度、言葉を交わしただけの男の子が何故こんなにも気になるんだろう。
 がたり、と音を立てて動き出す列車の中で、こっそりと苦笑して、閉まる列車の扉から外を眺めた。
 「あ」
 思わず声を出したら、座席のおじさんが怪訝そうにこちらをみたので、慌てて「何でもないです」と身振りで謝って。急いでもう一度、ホームを見る。
 ゆっくりと流れ出す景色の中を、あの男の子がこちらにむかって走ってくるのが見える。
 ひどく真剣な、そして何かを訴えかけるような表情で。確かに、何かを叫んでいた。
 私に向かって。
 ああ、あの子もまた、私に会いたいと思ってくれていたのだろうか。
 話をしたいと、思ってくれていたのだろうか。
 小さくなっていく駅を遠くに見つめながら、多分もう会うことはないだろうと、そう思ったら、泣きたくなった。
 泣いてしまえたら、どんなに楽なのだろう。けれども、ここは列車の中で。そして、憂鬱な空はまだ、雪を街に贈っていない。
 自分で望んで、向かってゆく未来。取り残してゆく、様々な、思い。
 あの男の子の笑顔を思い出しながら、私は涙を堪えるように、目を閉じた。


 
 それでも、進んでいくより他に術はなく。
 ただ取り残された思いだけが、線路の上で雪を待っている。

 多分、きっと、好きでした。



.. ... ... ...END.


← Back

[感想フォーム]