[Novels]

【手紙 / 前編】
 ご迷惑だと知りつつも、伝えずにはいられない僕をお許しください。

 雨が降りだした。
「冗談じゃないわ……」
 思わず愚痴がこぼれる。それでなくても最近営業成績が悪いのだ。雨なんか降られたら、ますます客足が遠のいてしまう。
 比奈季(ひなき)は舌打ちをしかねない勢いで、タンタンと高いヒールで地面を蹴った。
 駅前のターミナルビル入り口。サラリーマンに学生にと、家路を急ぐ、あるいは待ち合わせに急ぐ人並みが、ひっきりなしに流れている。タクシーは人待ち顔でロータリーを埋め尽くし、雨は不景気に追い打ちをかけるように、街を灰色で包み込む。
 ロータリー前は広範囲にわたって透明なルーフに覆われていて、雨にこそ濡れることは無かったが、雨を含んだ春先の空気は比奈季の都合などお構いなしに、露出の多い服を通して体温を奪っていく。
 まだ時間が早いせいか、客に引き込めそうなカモが見あたらない。ちらほらと見える同業者らしき派手な女やスーツの男を観察しながら、比奈季はイライラを押さえるように小さく息を吐き、ポーチから煙草を取り出して、口にくわえた。
 こういうご時世だ。どこの店も厳しいのだろう。どのホストにもあまり余裕というものが見られない。地下鉄の上がり口で客引きをしているホステスにいたっては、見るからに疲れていた。この業界、疲れを見せたら終わりだ。かくいう自分も、だから、気を抜けない。そう思いながら、比奈季は続いてライターを取り出し、火を付ける。が、湿気のせいか何なのか、上手く火がつかない。
「これだから百円ライターは……」
 思わず舌打ちをしてから、余裕が無いのは自分も同じだと、内心苦笑いをした。
 OLを辞めて3年。入ってすぐの頃は、不景気であるにもかかわらずそれなりに売れっ子だった。今よりずっと楽しく仕事をしていたし、酔っぱらったオヤジの相手も、全然苦ではなかった。
 元々、人と話をするのは好きなのだ。だから、機械的に仕事をこなすだけの事務を辞め、友人の紹介で今の店に入った。良心的な店で、仕事もしやすかった。
 いつからだろう。ここでもまた、機械的に仕事をするようになったのは。
 ただ、もう条件反射でのみ会話をし、酒を注ぎ、笑い。
 気付けば、お金しか求められるものが無くなっていた。働くために生きていた。
 働いている意味がわからない。
 かといって、今更OLに戻りたいとも思わない。
 ため息をついて、指先でくわえた煙草をはずしたところで、比奈季は視線を感じて振り向いた。
 視線の主はどこからどうみても学生服の、高校生らしき男の子。大きなスポーツバッグを傍らに、手には白い封筒を持って、真剣な眼差しで比奈季をとらえている。
 頬がわずかに桜色なのは、冷気のせいか、春ゆえか。
「あ、あの……」
 震えるような掠れた声が、雨のノイズを越えて比奈季の耳に届いた。



 振り返った彼女は、指先に挟んだタバコをゆっくりと胸の辺りまでおろして不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? 何か、用?」
 その言葉に、鳴海(なるみ)は自分の存在の小ささを知る。無理もない。彼女とは一度、本当に一度、言葉を交わしただけだ。覚えていないのは、当たり前だ。
 無理もない。何度も自分にそう言い聞かせる。
 手に持った封筒が小さく震えていた。降りだした雨のせいで、封筒が少しふやけて曲がってしまっているのがひどくかっこ悪く見える。
 声をかけたまま動かない鳴海を不信に思ったのか、彼女がわずかに眉をひそめた。
「学生さんに声をかけられる覚えはないんだけど……」
 鳴海はますます言葉に詰まる。彼女の対応は十分に予想できたことだ。けれども、自分が彼女を見つめていたように、ひょっとしたら彼女も自分のことを、ほんのわずかにでも意識の端に置いてくれているのではないかと、そんな淡い期待をしていたのも事実だった。
 傍目には判らないくらいわずかに、唇を噛んで。自分の背中を押すように、ひとつ、瞬きをして。
「これ、受け取ってください」
 鳴海は両手で封筒を差し出した。
「え……?」
 驚いている彼女の手に、無理矢理封筒を握らせる。
「読んでさえもらえれば、それで俺は……」
 喉が掠れて、鳴海の声は途中で途切れた。改めて言葉を続けようとも思ったけれど、伝えたいことは手紙に全て書き尽くしてしまった。今更、言葉にできるものも思い浮かばず、鳴海は途切れた言葉を残したまま彼女に背を向けると、そのまま振り返らずに走り出した。
 まばらな人混みを抜けて、やわらかなベールの様な雨を横目に地下鉄への階段を駆け下りる。一気に改札を抜け、そこでやっと歩調をゆるめて。
 彼女は手紙を読んでくれるだろうか。
 地下鉄のホームで、電車から湧き出るように降りてくる人波をよけながら、鳴海は彼女のことを思った。

 学校の帰り。JRから地下鉄へと乗り換える、その移動途中で必ず見かける彼女。
 初夏の日差しを思わせる、あたたかで眩しい微笑みを鳴海は知っている。
 だから。
 最近、その笑みに春先の雨に似た、細かく冷たい影が揺れるのも、鳴海は知っていた。
 思いを書き連ねた手紙。もちろん、その思いが彼女を救うことなどないことも、ましてや、その思いが彼女に受け入れられることなどないことも。鳴海は、十分に知っていて。
 わかっていても、それでもなお、伝えずにはいられない思いを。彼女は愚かだと思うだろうか。
 暗闇を走り抜ける地下鉄の中で、鳴海は硝子にうつる自分にそっと問いかけた。


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