[Novels]

【手紙 / 後編】
 走り去っていく後ろ姿を呆然と見送ってから、比奈季は封筒に目を落とした。湿気で少し曲がった白い封筒。宛名は無い。ただ、この天気で冷え切っていた指先に、その封筒はほんのりと温かく感じた。
 しばらく考えて、ちらりと腕時計で時間を確認する。出勤時間までには、まだいくらか時間があった。
 周囲を見回して、声をかけるべき客がいないこと確かめてから、封筒をポーチにしまった比奈季は、足早にロータリーを抜けティールームを目指した。
 ホテルのロビー横。ホテルの中からも、駅のロータリーからもどちらからでも入れる店づくりで、そのティールームはあった。程良く静かで雰囲気の良い、広い店内。内装も店員も出てくる紅茶も、どれも比奈季は気に入っていて、同伴の客との待ち合わせなどにもよく利用していた。
「いらっしゃいませ。ご案内いたします」
 比奈季をみつけて、馴染みのボーイが比奈季を一番奥の席へとエスコートする。温かいアッサムティーを頼み席につくと、比奈季はおもむろにポーチから手紙を取り出した。
 しばらく封筒の裏表をしげしげと眺める。直接手渡しで貰ったのだから、不幸の手紙などということは無いだろうが、しかし、ラブレターというのもいまいちピンとこない。話したこともない相手に好意を寄せてもらえるような、素敵な何かが自分にあるなどとは、比奈季は少しも思えなかった。
 だいたい、駅で客引きをしているホステスに、いったいどうしたら高校生が好意を持てるというのだろう。持てるとしたら、せいぜい興味くらいが関の山だ。
 不幸の手紙でも、ラブレターでもないとしたら、いったいどんな内容の手紙なのだろうか。
 そんなことを思っているうちに、ボーイが比奈季の前にそっと温められたティーカップと銀製のティーポットとを並べた。
 カップに紅茶を注いでから、封緘されていない封筒をそっと指先で開く。中からは、二つ折りにされた薄桜色の便箋が姿を見せた。少年の見立てだろうか。春らしい淡い色合いが、雨で冷えていた体にほんのりと染み込んでくる。
「良い趣味してるじゃない……」
 比奈季は思わずそう呟きながら、手紙に目を通した。

『ご迷惑とは知りつつも、伝えられずにはいられない僕をお許しください。』
 丁寧な鉛筆文字で、手紙はそう書き始められていた。
 一人称が僕であることに少年の緊張を感じ、比奈季は少しだけ無意識に微笑む。
『見ず知らずの、しかもまだ学生である自分が一体何を言うのだと。きっとお思いのことと思います。』
 読みながら、比奈季は紅茶を一口飲んだ。少年の緊張がうつったのか、ティーカップを持つ手がわずかに震えていることに気付く。
『僕自身、あなたのことは名前さえも知りません。けれども僕は、』
 緊張が心の中で大きくなってきて、比奈季はゆっくりと息を吐く。
『あなたのことが好きです。』
 寒い真冬に、温かい紅茶を一口飲んだ時のような温もりが、体中に染み込んでくるのが判る。
『あなたの笑顔が好きです。』
 震えている文字と、少年のまっすぐな瞳が重なる。
『社会には、僕の知らない苦労がたくさんあることを、僕は僕なりに知っているつもりです。だからこそ、僕はあなたのことが好きです。』
 涙がこぼれそうになり、比奈季は片手で口元を押さえた。
『穏やかな春風が、常にあなたとともにありますように。』
 こぼれた涙が、便箋の上で弾ける。溢れる涙に戸惑いながら。比奈季は化粧が崩れるのも忘れ、声を殺して泣いた。
 


 5月の頃だった。
 連休明けの気怠い空気を纏いながらJRから降りてきた鳴海は、ロータリーで一息ついた。休み明け早々の部活は、いつだってどうにも乗り気がしない。
 辺りはすでに暗かったが、空気はまだ昼間の熱を含んだまま穏やかに流れ、初夏を思わせる夜風が心地よく鳴海の頬を滑り抜けた。
 体中の気怠さを押し出すように、深く一呼吸ついて、地下鉄の階段へと向かおうとした、その時。
「真咲さんっ」
 鳴海の後方から、女性の声が響いた。
 何事かと振り返る。周囲の人間も訝しげにその女性を振り返る中、高いヒールを鳴らして走って来た女性は、鳴海の近くまで来ると、周りの目など気にならないほど必死にヒールを脱ぎ捨て、裸足でスピードを上げた。
「真咲さん、忘れ物っ」
 ゆっくりとロータリーを出ようとするタクシーに駈け寄り、大きく手を振る。
 止まるタクシー。窓から顔を出す男性。
 肩で息をしながら、ライターのような小さなものを男性に手渡した女性は、初夏の日差しのように眩しくて温かい笑顔でタクシーを送り出した。
 大きく手を振ってから、裸足のまま戻ってくる女性。鳴海はほとんど無意識に、そばに転がっていたハイヒールを拾うと、彼女に手渡した。
「足、大丈夫ですか?」
 彼女は一瞬だけ驚いたような顔をして、それからまた、笑顔になった。
「ありがとう。これくらい大丈夫よ」
 その笑顔が本当に綺麗で。
 鳴海はロータリーを通るたびに、彼女の笑顔を探すようになった。



 パウダールームで化粧を直した比奈季は、ゆっくりとティールームを出た。
 まだ、不思議な温もりが胸の中にある。何故泣いてしまったのか、自分でもわからなかった。
 ティールームにいる間に雨は止んでしまったらしく、途切れた雲間から、わずかに月がのぞいて見える。
 出勤時間は少し前に過ぎていた。このまま同伴無しで出勤するのはかなり気が引けたが、今からお客を捜していたのでは、それこそ話にならないだろう。やむを得まい。
 比奈季はため息をつくと、店を目指して歩き始めた。
「ヒナちゃん、ヒナちゃん。無視はあんまりじゃない?」
 ふいに横から苦笑めいた声をかけられて、比奈季は慌てて足を止める。
「あれ、真咲さん。お久しぶりです」
 傍に駈け寄って挨拶をする。自然と笑みがこぼれた。
「最近、ヒナちゃん、全然電話くれないから、寂しかったよ」
「お電話したかったけど、真咲さん3月は決算だって仰ってたから、ご迷惑かと思って」
「そう? なら良いけど」
 言いながらタバコを取り出す真咲に、比奈季はすかさずライターを取り出して火を付ける。雨が止んでいるせいか、ライターはすんなりと炎を灯し、タバコの先を紅く染めた。
「ヒナちゃん、最近、疲れてるみたいだったからさ。店辞めちゃったのかと心配してたんだよ」
「そんなこと……」
「無いとは言えないよね?」
 のぞき込むように言われて、比奈季は答えられず、苦笑した。
「でも、元気になったみたいで良かったよ」
「ありがとうございます」
「いいえ。だから今日は同伴させてね」
 何がどう、「だから」なのだろうと不思議に思いながらも、比奈季はそのありがたい申し出に心から感謝した。
 輝きを増してきた月の光の下を、店に向かって並んで歩く。
 話ができて嬉しいと言ってくれるお客様と、笑顔をくれる大切なお客様と。
 そんな素敵なお客様に出会わせてくれる店に、比奈季はお礼を言いたい気分になった。
「それはそうと、ヒナちゃん。百円ライターはどうかと思うよ」



 仕事後にバーに来るのは久しぶりだった。
 カウンターの席に腰掛けて、モスコミュールのグラスを傾けながら。
 比奈季はカウンターの上の白い封筒を見つめていた。
 今日は仕事が楽しかった。同伴できた真咲のおかげかもしれなかったが、それだけでは無いだろうことを、比奈季は感じていた。
 肘をついて髪の毛を指先で弄びながら、そっと、封筒をなでる。
 真咲と話をしていて、比奈季はやっと少年のことを思いだした。
 サザエさんよろしく裸足で走って真咲を追いかけた、その時、ヒールを拾ってくれた少年だ。ちょっと恥ずかしいなと思ったので、辛うじて覚えている。
 まっすぐな瞳と、緊張した文面と。
 淡い、桜色の便箋。
 比奈季は指先でグラスを弾くと、その音に耳を傾けながら、静かに微笑んだ。
 封筒に触れた指先が、ほんの少しだけ、温かかった。


 穏やかな春風が、常にあなたとともにありますように。


.. ... ... ...END.
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