[Novels]

【夜に月の薫る】
 室外機の低音に混じって、鈴虫の鳴き声が響いてくる。
 草木も眠る丑三つ時といえども、虫は眠らないのか。と、どうでも良いようなことを虚ろな頭で思う。
 虚ろな頭。駄目だ。虚ろになんかなっている余裕は無い。例えここ3日ほどまともに睡眠を取っていなかったとしても、この無駄な思考を行っている一分一秒毎にさえも、納期は迫ってきているのだ。気持ちが焦る。駄目だ。焦っていては余計に進まない。落ち着いて。しかし迅速に仕上げなければ。これ以上デバッグ作業の人間に負荷をかけるわけにもいかない。
 それでなくても、クライアントの我が儘で、百八十度といかないまでも、百四十度は超えてるだろうと思えるような方向転換を迫られ、納期までのスケジュールが差し迫っているのだ。
「終わりそうか?」
 粘るんじゃないかってくらい濃いコーヒーを差し出しながら、矢崎が言った。
「わからん」
 思わずそう答えてしまい、苦笑される。
「仮眠取ってる暇も無いからな。すまんが死んでもいいから終わらせてくれ」
「わかっている」
 コーヒーというよりはタールだろうと思われる液体を喉から体に流し込み、わしわしと両手で頭髪を掻きむしってから、大きく息をつき、ディスプレイに向き直る。
 やるのみ。
 そもそも矢崎と俺の二人しかいない会社なのだ。分担して仕事をこなしてはいるが、技術的にどちらかにしかできないことや、内容的に一人でしかできない作業というものがどうしてもある。終わらせなければならない俺も辛いが、ただ待つことしかできない矢崎も、十分に辛いのだ。
 もう一息だ。どうせなら、やりきって死ね。
 この世の終わりに立ち向かうような勢いで、俺は仕事を追い込みにかかった。
 室外機の低音と、鈴虫の鳴き声が次第に遠くなって行く。
 夏が終わるのか。唐突にそんな思いが頭をよぎる。春はとっくに過ぎ去った。花見もできないまま。
 秋が来る。
 その前に、これにカタをつけるのだ。
 頭のどこかで、仕事モードにスイッチが切り替わるのがわかった。



 死んで悔い無し。
 メディアへの保存も確認し、コピーも取り、慎重にケースに納めて一息ついた時には、カーテンの向こうにうっすらと光が見え始めていた。午前五時十一分。ぎりぎりだが、間に合った。いや、間に合うはずだ。
 おぼつかない足取りで仮眠室へ向かい、矢崎をたたき起こす。
「お疲れ。じゃあ届けに行って来る」
「頼む」
 仮眠室を後にする矢崎の後ろ姿を確認する余裕も無いまま、ソファーベッドに身を預けた。

 夢を見た。
 夢だと気づかないままに。
 桜の咲き乱れる並木道を、佐織とともに歩いている。
 薄紅色の花びらが舞い散る、柔らかな日差しの中を。
 敷き詰められた桜色の絨毯を、音もなく踏みしめながら。
 妻と一緒に、歩いている。
 妻では無かった頃にしか、実現できなかった風景の中に。
 愛おしい、切り取られた空間の中に。
 その中で。
「あなたの妻であることを、やめたいの」
 だって、あまりにも寂しいんですもの。
 穏やかな声が、花びらのように静かに、儚く美しく、舞い落ちてきた。
 そして、世界が揺れる。

 ガツン。
 振動がダイレクトに脳みそに来た。
「起きろ。さすがに寝すぎだろ、お前」
 もう一度、ガツン。
 ソファーベッドをやや乱暴に蹴られた衝撃だと判って、少しむかついたが、意識がまだぼやけていて怒るまでには至らない。
「何時だ?」
 暗闇なのか、目が開いていないのか判断しかねてたずねると、
「八時だ。夜のな。ほれ起きろ」
 さらにガツンと衝撃を加えられた。
「わ〜かったから、蹴るな」
 のそりと立ち上がり、両足に力を入れて踏ん張る。まだ少しふらふらするようだ。
「バルコニーに出るからな。うっかり落ちないように顔洗って、目、覚ましてこいよ」
 俺は先にバルコニーに上がってる。
 そう言って、矢崎はさっさと部屋を出ていく。訳がわからないが。まあ良い。こういうことには結構慣れている。
 大きくあくびをし、はねた髪の毛を撫でつけるように両手で梳きながら、ゆっくりと洗面所へ向かった。
 ――あなたの妻であることを、やめたいの
 佐織と別れて約二年。佐織を、妻を夢に見ることなど無かったというのに。
「薄情な話だ」
 鏡に映ったひげ面に向かってつぶやく。ひげ面が自嘲気味に笑う。
 過ぎたことだ。戻らぬことだ。それを嘆いても仕方が無いのだ。
 自分は妻との時間よりも、仕事を選んだ。それが事実だ。
 そして、佐織にはそれがとても辛かった。夫婦とはそんなものではないはずだと、そう言った。
 それもまた、事実だし、理解のできることだった。
 母親でこそ、妻としての意識が足りないのだと陰で彼女を罵ったが。俺に言わせればそんな「妻としての意識」なんてものがすでに、干からびた過去の遺物でしかない。
 寂しいから。辛いから。だから別れましょうと言った彼女の、その申し出を受け入れたのは俺だ。
 止める理由はないと思ったからだ。
 そして何よりも、妻との時間を作るより、仕事をしている方が充実感を得られたからだ。
 俺が。俺のために選んだ、この上ない我が儘だ。
 だから、仕方がないことだ。
 事実、俺はあの時から何も変わっていないのだ。
 ――桜が咲いたら、一緒に並木道を散歩しましょう
 そうしようと答えた、結婚前と。桜が咲いていることにさえ気づかなかった、この四年。
「秋、か」
 たとえ、あの桜舞う風景を懐かしんでも。季節はもう、秋なのだ。
 目の前に、桜などあるはずもなく。
 中途半端な懐古をぬぐい去るように顔を洗い、バルコニーへ出た。 
 目の前に、美しくかがやく、大きな丸い月。
 バルコニーに出るなり目に飛び込んできた、その月の大きさに思わずよろめいた。
「さっさと座れよ。そして、飲め」
 切り子の冷酒グラスを受け取りながら、バルコニーを見渡すと、いつの間に買ってきたのか、串団子と純米酒の一升瓶と、申し訳程度にほよほよと穂を揺らすススキが、空になったビール瓶に生けられていた。
「何やってんだ?」
「仕事も一段落ついたところで、月見だ」
「はあ」
 ご丁寧に、座布団まで用意してある。
 みしみしと音を立てそうな体で腰を下ろし、差し出される酒をグラスに受けると、その水面にまで、月が大きく輝いて揺れる。
「でかい月だな」
「そりゃそうだ。中秋の名月ってやつだからな」
 酒を舐めながら矢崎が笑う。
「中秋の。そうか」
 季節はもう、本当に秋なのだ。実感して、ため息をつく。
 そのため息を聞いてか、聞かずしてか、矢崎が唐突に言った。
「会社つくって二年だな」
「そうだな」
「お前が離婚して、二年か」
「……そうだな」
 人の感傷を見抜いているのではないかと思いたくなるほどに、タイムリーな話題だ。
「佐織さんには、全然会ってないのか?」
「会うも何も。連絡も取ってない」
 煽るように酒を飲むと、アルコールの熱が空きっ腹に染みた。
「まあ、仕事にかかりきりだったしな」
 笑うように口元を歪めて、諦めにも似たため息をもらす。
 楽しいのだから、どうしようもない。仕事のすべてが。それを取り巻く日々が。
 こんな贅沢な幸せは、他にはないだろうとさえ思えるのだ。
 その喜びに、佐織との時間が勝ると思えなかったのだ。
 こんな人生。と、思う瞬間が無いわけではない。けれど、少なくとも悪いと思ったこともないし、虚しいと思ったこともない。
「後悔は無いんだ」
「誘ったのは俺だしな。その辺は、何とも言えん」
 言いながら、矢崎が何やらごそごそと取り出した。
「つまみが団子しかないからな。塩味食いたければこれを食え」
 茶色の上薬がかかった、小さな焼き物の小瓶。月の明かりを受けて、濡れたように光る。
「梅干しか?」
「似たようなもんだな」
 しっかりと閉められた蓋を開くと、柔らかな薄紅色とともに、くすぐるような香りが周囲に広がった。
 桜の塩漬け。
 開きかけの蕾や、咲いたばかりの花が、小瓶の中で薄紅色の月明かりを纏っている。
「佐織さんが送ってくれた。どうせまた桜見逃しただろうから、お前にやれってさ」
「佐織が、」
 共有の時間を持てないのなら、夫婦である必要はないのだと。
 妻であれば、夫との時間を夢見てしまうのだと。
 彼女はそう言った。
 決して、別れたいと望んだ訳ではなく。
 それは、また、お互いにとっても……。
 咲きかけの桜をひとつ、つまみ出して口に含む。
 濃厚な桜の香りと、深みのある塩味が、口の中で溶けるように広がる。
 舞わない桜。しょっぱい桜。
 その薫りは深く、強く。思い出は遠く、遙か。
 噛みしめることができずに、無言のまま、酒でゆっくりと喉に流した。

 思いは深く。思い出は遠く。
 望んだものと、手に入れたものと、その代償に捨ててきたものを。
 愛おしく、切なく、感じながら。

 桜の薫りを纏い、月は、秋の空で輝いている。
 その月を眺めて、俺は、甘い串団子を頬張った。


.. ... ... ...END.


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