[Novels]

【夕魚の彼方】
 蝉時雨。夕立ち。かみなり。夕魚の群れ。
 押し寄せる波にも似た、蝉時雨の中を。
 家に向かってゆっくりと歩く。
 昼過ぎに降った「夕立ち」のせいで、しばらく黙りこくっていた蝉たちが一斉に鳴き出したらしく。照りつける午後の日差しとアスファルトから立ち上る陽炎とともに、真夏の熱気を、より息苦しく感じさせていた。
 額から伝い落ちる汗を腕で拭いながら、最近耳にした、蝉の数が減っているらしいというニュースを思い出す。
 地中で一年から五年を幼虫として過ごし、地上に上がって約一週間で成虫としての命を終えるといわれる蝉の、もともと短いと思える寿命が、近年一層短くなっているのだという。早いもので三日。長くても五日で寿命が尽きることが多くなっているらしく、必然、卵を産む蝉の数が減り、次第に蝉自体の数が減少していっているという、そんな内容だった。
 環境は、刻一刻と変化している。身近に溢れる小さなニュースから、日々、様々な変化を知らされる。
 熱気に揺らぐアスファルトに、焼き付くような自分の影を見下ろしながら。夏の風物詩になりつつある、夕魚の群れを思う。
 昼過ぎに降る雨と午後の日差しで蒸し上がる大気。目眩を感じるほどの湿度。
 夕魚の発生条件としては、この上ない程の好条件と言えた。
 夕魚。
 数年前から夕立ちのかわりに見られるようになった、日本特有の現象だ。
 空気中に漂う厚い湿気の層が太陽の光を反射して、まるで魚が空を泳いでいるかのような蜃気楼を描き出す。
 最近ではすっかり、日本における異常気象現象の代表としてあげられるほどになっていた。
 近い将来、水の底へと沈みゆく運命にある日本の、まるで行く末を暗示するような夕魚の群れ。今年もまた、夕魚が見られる季節になりましたと笑う天気予報のお姉さんの、その笑顔がどことなくかげったものになるのも、無理のない話だろう。
 そんな夕魚の、一種幻想的でもあるその現象は、同時に、風流な日本人心を刺激するものでもあるらしい。浴衣や団扇、扇子などの絵柄として、赤い金魚のかわりに淡いブルーの夕魚が多くデザインされているのを、夏になると頻繁に、商店街の店先で見かける。滅びの前兆という暗い部分を、古くからある日本の文化はやさしく受け止めているとでも言うのだろうか。
 馴染みはあまりないけれど、俳句でも、夕魚は夏の季語として使われるようになったらしい。めぐり来る夏の風景と、閉じゆく未来へとのぞむ詩を目にすることがある。
 それは時として鎮魂歌のようであり。また、時として、深い嘆きのようでもあった。

 夕魚の群れを見上げるのは、嫌いじゃない。
 夕方の、少しだけ穏やかになった太陽の光を、ゆらゆらと反射しながら空を泳ぐ真夏の魚。時折、水面から跳ね上がるように、きらりと光る様子も。艶やかな鱗を思わせるその輝きも。純粋に、美しいと思う。
 けれども。
 その光景を見上げるたびに。難しい顔をしてテレビで語る、年老いた学者の言葉を思い出して、苦々しい気持ちになったりもする。
「どうしようもないことです」
 吐き捨てるようなその言葉から、いつも、その学者の話は始まった。
「地球温暖化や環境破壊が散々声高に叫ばれていたにもかかわらず、惰性で生きてきた人類に、ツケが回ってきたんですよ」
 忌々しげに放たれる言葉。
「大洪水が来ると解っていても、それがいつかすら予想できない。それが現状です」
「一カ月後かもしれないし、一年後かもしれない。ひょっとすると、十年は保つかもしれないけれども。まあ、確実に終わりが来るわけですよ」
「大半の国が水に沈む。日本だけではなく、地球規模の破滅であることが、まあ、救いではありますかね」
「いずれにしても。もう、どうしようもないことです。地球を脱出する術があるってのなら話は別ですが。今の技術じゃあ、まず無理でしょう」
「せいぜい残りの人生を楽しむ以外に、私たちにできることはありませんよ」
 いつもいつも、皮肉な笑みで、その学者の言葉は終わるのだ。
 むかつくジジイだ。と、思う。
 あんたはそれで良いだろう。十分に年老いて、あとはもう朽ち果てていくだけの人生だ。今まで散々楽しい思いもしてきたのだろう。
 だが、僕らはどうなのだ。
 未来は無いのだと宣言されて。何をどうしたら良いのかさえ解らないまま、ただ毎日を生きていくしかない僕らは。
 物価が上昇している訳でもなく。経済が目に見えて混乱している訳でもなく。食糧不足や水不足に悩まされている訳でもなく。ただ、わずかな歪みを、夕方ではなく昼過ぎに降る「夕立ち」や、夕魚の群れや、小さい頃には身近にあったはずの、今は見かけない生き物たちに感じるだけの、ひどく現実感を伴わない終焉を前にして。
 どうして「残りの人生」を楽しめるというのだろうか。「どうしようもないことだ」と言われて、そうですね。と素直に頷けるほどの、覚悟も諦めも持てないと言うのに。
 肺の奧にある重い塊を押し出すように、深く長く息を吐く。
 汗で濡れた肌にまとわりつく空気を振り払うように、軽く頭を振ってから亨は家の扉をくぐった。
「ただいま」
「亨君? おかえりなさい」
 部屋にいるだろう母に向かって帰宅を告げると、予想に反して、座敷の方から母のものよりもわずかに高い、穏やかな声が返ってきた。
 誰だろうかと思いながら、バタバタと靴を脱ぎ捨て、声のした方へ向かう。畳を軋ませて座敷に入ると、葦簀で日陰になっている縁側に座って、淡いペパーミントグリーンのワンピースに身を包んだ女性が、やわらかな笑みを浮かべて亨を迎えるのが見えた。
「ゆき姉……。背、縮んだ?」
 三年ぶりに会う従姉を見下ろして、亨はとっさにそんな言葉を口にする。
「やだ。亨君の背が伸びただけでしょ。……ほんと、中学から高校にかけての三年間って、変化激しいのね」
 なんだか悔しいと言いながら、六歳年上の従姉である有希は楽しそうに笑った。
「ゆき姉は、あんまり変わらないね」
 ワンピースの上からでもわかる程度に大きくなっている有希のお腹を、控えめに眺めながら、呟く。
「二十歳過ぎちゃうとね。そうそう大きくは変わらないわ。身長とか、顔つきなんかは特にね」
 有希は、そう答えながら意味もなく足下に視線を落とした。
 扇風機の風に煽られて、風鈴が透明な響きを奏でていた。
 ゆらゆらと揺れる素足の先に、申し訳程度に白いサンダルがひっかかっているのが見える。
 葦簀がまだらに影を落とす中。僅かな沈黙が流れる。
 その流れを、ふっと穏やかに断ち切って。
「しばらくの間、よろしくね」
 肩が隠れる程の、長い黒髪を揺らして。有希が軽く頭を下げた。
 それにつられて亨も頭を下げる。
「こちらこそ……」
 後に何か言葉を続けようと思ったものの、何をどう言えば良いかわからないまま、言葉が途切れた。戸惑いつつも、仕方なく、
「汗だくだから、シャワー浴びてくる」
 そう言葉を切り上げて、亨は座敷を後にした。

 ぬるめのシャワーを浴びながら、思ったよりも元気そうだ。と、従姉の様子を思い返してほっと息をついた。
 今日からだということをうっかり失念していたけれど。出産までの約半年を従姉が亨達の家で暮らすことは、数週間前から母に聞いて知っていた。
 母の兄の娘である彼女が、なぜ、両親の家ではなく叔母の家で出産までを過ごすのか。その理由についても、母はきちんと亨に話して聞かせていた。
 母は昔からそうだった。と、亨は思う。
 言葉がすべてではないけれども。状況の説明や心理の伝達に際し、誤解や齟齬を極力減らすためにも、言葉は惜しまずに利用すべきだというのが、母の昔から変わらない意志であるように思う。
 隠して、知らないことで状況を無難に乗り切るのではなく。話して、現状を理解した上で、尚かつそれをどう受け止め、対応して欲しいのか。そこまでの意思表示を、母は言葉にするのだ。強制ではなく、あくまで一つの意思として。
 だから母に、従姉の置かれている立場と状況の説明を受けた時も、驚きこそしたが戸惑いはなかった。ただ、ぼんやりとした曖昧で形のない、細波にも似た感情が、胸の底に漂っているのを感じた。
 シャワーのお湯が、タイルの床に跳ね返って絶え間ない音を立てている。
 夕立ちを連想させるその水音に、亨は目を閉じた。
 前回、彼女に会ったとき。彼女の隣には、人の良さそうな男の人が立っていた。
 もう三年くらい前になるだろうか。成人式を迎えたばかりの彼女は、中学二年生であった亨に、はにかみながら自分の彼氏であることを告げた。
 儚い恋の、あっけない終わりに、少なからずショックを受けはしたけれども。それ以上に、彼女の笑顔が素敵だと、亨は思ったのだ。
 だから。幸せになれと、願っていたのだ。心から。
「……交通事故、か」
 体を伝って流れ落ちる水の流れを肌で感じながら。ひとり呟く。
 母の話によれば、大学卒業とともに結婚を約束し、結婚式の日取りも決まり、数日後には式をするというその時、相手の男性が交通事故で亡くなったのだという。
 相手は、亨が会った、あの、人の良さそうな男性だった。ただ、事故にあった彼の運転する車の助手席には、その昔彼がつきあっていたという女性が乗っていたのだという。
 彼も助手席の彼女も即死。事故があった日は、おりしも、その助手席の彼女の誕生日だった。時刻は早朝の五時。
 誰が何を言わずとも、男性の不義は疑われても無理からぬことであった。
 たとえ有希が否定したとしても。周囲の判断は揺るがなかったのだという。
 そこにきて、有希の妊娠が発覚することとなる。子の親は疑うべくもなく、夫となるはずの男性だった。
 周囲が判断するところの、不義を働いた男の子供である。
 結婚さえも叶わなかった相手の、結果、未婚の母になるという事実だけでも、古い時代の人間には許容しがたいことであるのに、その上、愛娘を裏切り、他の女と他界した男との子であるとなっては、有希の両親としても、その事実を喜んで受け止めることができなかったのだろう。
 そんな男の子供など産むなと両親は迫り。有希は頑なにそれを拒否した。
 歩み寄りや解決はまったく見られず、張りつめ歪んだ関係を見るに見かね、有希の叔母にあたる亨の母がこっそりと助け船を出したのだ。
 そして今、有希は亨の家に来ている。
 愛するものに先立たれ、忘れ形見とも言える子供の誕生さえも両親に疎まれ、その心は決して穏やかではありえないだろうというのに。
「ゆき姉……」
 彼女はどうして、あんなにも穏やかに微笑むのだろうか。
 何が彼女を、優しく包んでいるのだろうか。
 したたる水を振り払い、浴室を出る。絡みつくような空気の中に、かすかに夕魚の気配を感じながら、亨は深くため息をついた。

 冷蔵庫から麦茶を取り出し、二つのグラスに注いで、それを持って縁側へと戻る。
 扇風機のゆるやかな風に煽られながら、従姉は一人、空を見上げていた。
 空には、こぼれんばかりの夕魚の群れ。夏の眩しい夕日に照らされて、ゆらりと空を波立たせている。世界を包み込むような蝉の鳴き声が、亨と有希に降り注ぐ。
「綺麗ね……」
 ぽつりと呟く声。その穏やかな横顔に、亨は曖昧な返事を返した。
 なぜ、そんなに穏やかでいられるのか。
 夕魚を見上げて。それはつまり、遠くない未来に訪れる終局の予兆だというのに。
 どうして、この従姉はこんなにも落ち着いて、空を見上げているのだろうか。
 滅びていく運命を前にして。
「なぜ、産むの?」
 思わず音となってこぼれた言葉に、有希は不思議そうな表情を亨に向けた。
「なぜ、って?」
 優しくかえされる。こぼれてしまった言葉を、無かったことにはできずに。小さく一呼吸置いて、亨は言葉を続けた。
「どうせ、滅びる世界なのに。生まれてすぐに死ぬかも知れないのに」
 それなのに、なぜ産むの?
 両親の強い反対を受けてまで。親戚の家に避難してまで。たとえ相手の男を愛していたのだとしても。すでにその男はこの世界には居ないのに。何がそこまで、彼女を強く立たせているのか。亨には不思議で仕方がなかった。
 空を泳ぐ夕魚の群れ。この世界を、深い海の底へと誘う幻影。
 明るい未来を望めない世界にあって。それでもなお、生まれてきたいと思うものがいるのだろうか。
「綺麗よね」
 亨の問いに、有希は穏やかにそう答えた。
 質問と答えが繋がっていない気がして、亨はわずかに眉をひそめる。
「私、夕魚って好きよ。……たとえ、人の滅びの前兆だとしても。本当に、とても綺麗だと思うから」
 水滴を纏ったグラスを手に取り、一口、喉を潤す。
「きっと、エゴなんだろうと思うけど」
 琥珀色に揺らぐグラスを見つめて、
「でもね。私は、この世界の美しいものを、この子に見せてあげたいの」
 だって、すでにもう、命としてここに存在して居るんだもの。
 有希はそう言って、そっと自分の腹部に触れた。
「たとえ、滅びる運命だとしても、生まれてきた意味を失うことにはならないでしょう? 死ぬ運命にあるからって、生まれてくるはずの命を消すなんてこと、私にはできない」
 決して大きくはない声。けれども確固たる強さを持った言葉だと、亨は思った。
 生まれてきた意味がなくなることにはならない。
 本当にそうだろうか。
 心の中で呟いた亨の思いに気づいたかのように。有希はかすかに微笑んで言った。
「私たちが思っている以上に、きっと、この世界は鮮やかで美しいものだと思うの。あまりにも当たり前に存在しすぎて、鈍くなってしまっているだけで。この扇風機の風も。風鈴の音だって。すべて、生きているからこそ感じられるものよね? 生まれてきたからこそ、感じられることよね? もちろん、生きている以上、辛いことも悲しいこともあるけど」
 思い出したように、目を閉じて。小さく息をつく。
「でも、少なくとも私は、今、この瞬間に生きていることを後悔したことはないから」
 だから、世界が終わるそのぎりぎりまで生き続けていたいと思うし、その世界を、生まれてくる子供にも見せたいと思う。
 不安がないといえば嘘になるけれど。それでも。美しいものを美しいと感じていたいと思う。
 静かに紡がれる、有希の言葉。
 その言葉を彩るように、風鈴が清らかな音を立てる。
――せいぜい残りの人生を楽しむ以外に、私たちにできることはありませんよ。
 ふいに、亨は年老いた学者の言葉を思い出す。
 どうしようもないことだから。と、半ば捨て鉢に言葉を吐き捨てた男と。
 たとえ終わりを迎えるとしても、この美しい世界で生き続けていたいのだと言う従姉と。
 同じ、閉じゆく未来を前にして、こんなにも違ったとらえ方ができるものなのだろうか。
 あの学者と従姉とでは、何が違うのだろうか。
 自分も、従姉のように、穏やかに未来を見つめることができるだろうか。
 遠くに響く、蝉の声を聞きながら、亨は思う。
 長い時を地中で過ごし、ひとたび地上に出ては瞬く間にその命を閉じてゆく。その蝉の鳴き声を聞きながら。
 滅びに怯えるだけではなく。残された時間に焦るだけではなく。この瞬間瞬間を、夕魚の群れの輝きを、生きているこの時を、大切だと思えるだろうか、と。
 真夏の熱をかき混ぜ、幽かな涼をもたらす扇風機の風。その風に揺られて、透き通る音色を部屋に散らす風鈴。
 終局に向かい、ゆっくりと泳いでゆく真夏の魚、夕魚の群れ。
 空の水面で鱗をきらめかせる夕魚を見上げて。確かに綺麗だと、亨は思う。こうして、有希とともに空を見上げている今が、愛おしいとも思う。
 けれども、その美しささえも、やがて訪れる破滅への一歩一歩だと考えると、亨は手放しに、生きている今を幸せに思うことはできなかった。
 この瞬間が壊れる未来を思うと、訳もなく、大声で泣き叫んでみたくなる。
 今が愛おしいからこそ。明日来るとも知れない終末を前にして、ただ、立ちすくむことしかできないのではないか。
 亨は無言で唇を噛みしめ、次第に溶けはじめた夕魚の群れを睨むように見つめる。
 あの学者の言葉に、えもいわれぬ不快感を抱くのは、認めたくなくとも抗えない何かがあるからなのではないか。
 自分と従姉の違いは何なのだろうか。
「亨君?」
 心配そうにのぞき込む従姉の声に、亨は誤魔化すように力無い笑みを浮かべた。

「ただいまぁ。もう、本当にあっついわねぇ」
 夕魚の群れが溶けて消え去った、淡い淡い水色の空を見上げていた二人の後ろから、真昼の太陽を思わせる明るい声が届いた。
「お帰り、母さん」
「お帰りなさい、涼子さん」
「ただいまぁ。お帰り、亨。お留守番ありがとね、有希ちゃん」
 ひと息にまとめて挨拶をしながら、亨の母親は食材がたくさん詰まったレジ袋をキッチンの床におろした。
「お夕飯、素麺で良いかしら?」
「わあ、嬉しい。夏はやっぱり素麺ですよね」
 お手伝いしますと言って、有希は亨の隣から立ち上がった。
 すっかりぬるくなった麦茶を喉に流し込みながら、亨は楽しそうに談笑しながら食材を冷蔵庫にしまう二人の姿をぼんやりと眺めた。
 お野菜と薬味いっぱい用意しましょうね
 私、ミョウガ好きなんですけど、妊婦には刺激物、良くないんですよね……
 他愛もない会話が、穏やかになりつつある蝉の声に混じって亨の耳に届く。
 母の声を聞きながら、亨はふと、色々なことを語って聞かせる母も、世界の終わりに関しては、一度も弱音を吐いたり嘆いたりしたことはなかったと思い至る。
 母も従姉と同じように、迫り来る世界の終わりを前にしてもなお、この世界で生きていたいと思っているのだろうか。
 そうかもしれない。そうでなければ、自分は今、こうしてここには存在していないかも知れない。
 今までの時を振り返りそう確信した亨に、母である涼子が声をかけた。
「ほら亨! 妊婦さんに働かせてぼんやりしてるんだったら、お庭からトマトとネギ採ってきて」
「ええ? ……別にいいけど。でもトマトって、もう一個しかなってないじゃん?」
 縁側から庭に降りながら、亨が言い返す。
「何よ。一個あれば十分でしょう? だいたい、一個だろうと何だろうと、せっかくなってるんだから、美味しく熟れてるうちに食べなくちゃもったいないじゃない」
 せっかく美味しくなってるんだから。
 涼子の言葉に、亨は足を止めた。
 せっかく美味しく熟れてるんだから、少しでも美味しいうちに食べたいじゃない。
 ……せっかく生まれてきたんだから、少しでも美しいものをみていたい。
「え、もしかして、同じレベル……?」
 愕然と呟いて、亨はトマトと母を交互に見比べた。
 キッチンで、手際よく動く涼子と有希に、西日が反射して、きらきらと金色の粒をはじき出している。
 夕魚が消えた後の空から、まだ眩しい光が降り注ぎ、赤いトマトの表面を、柔らかく照らし出す。
 命の輝き。
 そんな言葉を思って、亨はそっと、キッチンの二人に気づかれないように笑った。そして思う。
 おそらく、言っている内容は同じなのだ。
 あの年老いた学者の言葉も、有希の言葉も。
 ただ、それを思う時の気持ちがわずかに違うだけで。
 儚いからこそ美しいってことは、無いだろうと思う。美しいものは、いつだってきっと、美しいのだろう。ただ、それを感じる人間側の感性が錆びていくだけで。
 だから、もし、滅びてしまうものならば、滅びてしまう前に、美しいと感じていたい。
 せっかく生まれてきたのだから。
 大切な、命なのだから。
「よし。美味しいうちにいただきます」
 小さな声で呼びかけて、亨はトマトに手を伸ばした。
 陽の光を十分に受け、みずみずしく輝く赤が沈み行く太陽を思わせる。触れた指先から、かすかにひんやりとした温度が伝わってくる。心地よい手触りに、亨は思わず目を細める。
 夕魚が導く未来は、おそらく、本当に世界の終わりなのだろう。
 けれども僕らは、今、生きていて。
 この瞬間を、愛おしいと思う気持ちに嘘は無い。
 揺らめき、消えていった夕魚の彼方を見つめて。
 亨は、もぎ取ったばかりのトマトを片手に力強くのびをした。


.. ... ... ...END.

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