[Novels]

【春が来るまで】

「最近、寝ても寝ても眠たくて……」
 桂城(かつらぎ)はそう言いながら、机に突っ伏した。
 外は木枯らしが吹いているけれど、硝子窓が僕らを守っているので、図書室の中は柔らかな日射しの優しい暖かさに包まれていた。時折、小生意気な風が悔しそうに窓を叩いて行く音だけが、静かな教室内に響く。
 桂城が寝ても寝ても眠たい理由を、言葉にはしないけれど僕は知っている。
 桂城は、箱入り娘なのだ。眠っている間――桂城が夢を見ている間、桂城は小さな箱から抜け出して、桂城が心から求める愛おしい人の側で、愛おしい人と言葉を交わす。体は眠っているけれど、その間、心は起きていて、だから、桂城はいつも、眠いのだ。
「だからって、授業中とかには寝るなよ」
 うとうとし始める桂城に、僕は慌てて声をかける。
 昼間は、箱の持ち主は家に居ない。そんな中で桂城が箱から起き出しても、ぬくもりも何も無い広い部屋の中で寂しい思いをするだけだ。だから、桂城は昼間は眠ってはいけない。
「ん……、わかってる」
 桂城は、辛うじてそう答えて、眠たそうに目を擦った。
 僕が、あの人の代わりになれればいいのだけれど。
 最近の桂城を見るたびに、僕はそう思う。
 けれども、それはとても無理な話だ。それに――。
 それに僕は、桂城を幸せにしたいとは思っているけれど、あの人の立場になることは望んでいない。桂城だって、僕に、あの人のような役割は求めていないだろうと思う。
 ……僕が望む立場を、桂城が望んでくれているとも思えないけれど。
 びょぉと、窓の外を風が駆ける。
 誰かの捨てた小さなビニール袋が、風に煽られて空へと舞い上がる。
 箱から出た桂城を、僕は見たことがなくて。ただ、あの人の話によると、夜の桂城は片手に乗るくらいの大きさで、そして、昼の桂城よりもよく喋るのだという。
 桂城は、夢だと思っているから。多分、現実よりも素直にいられるのだろう。
 桂城は、あの人のことを心から大切に思っているから、現実では緊張してあまり話ができないのだと、時々僕にこぼす。
 そうやって本音をもらしてくれることがとても嬉しい反面、そんな風に大切に思われているあの人のことが、時々とても憎らしかった。

 今夜もきっと、桂城は夢の中であの人の元へといくのだろう。
 そしてあの人も、それを優しく受け入れるのだろう。
 うとうとし始める桂城の頭を軽く叩いて起こしながら。
「やっぱり、あんまり良い状況じゃないと思うんだ」
 僕は決意を小さな声にした。


「指輪、埋めませんか」
 僕の言葉に、担任教師である柚木(ゆき)先生はかすかに眉を上げた。
「なぜ」
 いつも通りの落ち着いた口調で返される。国語科教師であり、担任である柚木先生は、いつもこんな風に落ち着いている。
 そう。柚木先生が十年以上昔に兄から処分をたくされたという指輪の小箱から、小さな桂城が現れた時でさえ、この人はその状況を素直に受け入れ、あまつさえ、夜になって動き出したその小さな桂城と普通に言葉を交わしたりするのだ。
「桂城は、いつも眠い眠いと言うんです。……本人は無自覚だけど。最近、先生の家で活動している時間が長くなったりしてませんか?」
 心当たりがあるのだろう。僕の言葉に、先生は頷く代わりに目を伏せた。
「このままいったら、そのうち、眠りから覚めなくなるかもしれない。それって、やっぱり、良くないと思うんです」
「そうだな」
 あっさりと頷かれて、少しだけ苛つく。
「そうだなって……」
「俺では、桂城の父親にはなれないとは常々思ってはいたんだが。ただ、純粋に教師としてだけでは、彼女を支えてやれない気がしててな」
 だから、そういう決断には出られなかったんだと、桂城の大切な人である柚木先生は言う。
 基本的に、とても優しくて、そして、生徒思いの人なのだ。
 毎晩、授業の準備をする合間に桂城の相手をするくらい。
 父親を求めて自分のもとに現れる桂城に、ひとときの安らぎを与えてやろうと思うくらい。
 自分の兄の身代わりを、密かに担うくらい。
「……幸せな家庭を築いているお兄さんに言ってみたらどうですか」
 あなたがあの指輪を渡すはずだった女性は、あなたとの子供を密かに産んで、一人で育てているんですよ。
 あなたが、本来指輪を渡すべき女性を捨てて、上司から紹介された女性と結婚なんかしたおかげで、父親を求めて桂城が、夜な夜な指輪に宿った妖精であるかのように現れるんですよ、と。
 僕の言葉に柚木先生が苦笑する。
 わかっている。そんなこと、誰も望んでいない。
 僕が望んでいるのは、大切な大切な桂城の幸せだし。
 柚木先生が望んでいるのは、大切な生徒の幸せなのだから。
 ただ、誰かを不幸にするだけの力しか持たない真実など、それこそ箱に閉まっておくべきなのだ。
 指輪が眠るはずの箱の中で、小さな桂城も眠っている。
 夜になると起き出して、柚木先生に父親の影を見る。
 桂城の意志でというよりもきっと、桂城の母の思いによって。
 ……良いことなんて、何もない。
「いいだろう。埋めよう。……きっとそれが、一番正しい方法だ」
 教室の窓から中庭を見下ろして、柚木先生は静かな声でそう言った。

 中庭の桜の木の根本に穴を掘り、まだ指輪の形を保っているものを埋める。
 桂城が起きている間は、指輪はきちんと指輪なのだ。
 この指輪が、桂城の眠りとともに、小さな桂城へと変化するのだ。
 僕はみたことがないけれど。でもきっと、それは事実なのだ。僕にはわかる。
 咲く前の、まだ蕾さえついていない桜の木の根本に、まるで、種をまくように指輪を埋める。
 柚木先生と二人で。そして、柚木先生のお兄さんと、桂城のお母さんの思いを弔うために、椿の花を一輪、地面に添えた。
 思いがすべて大地に溶けたなら、きちんと掘り出して捨てよう。
 そう言って、柚木先生が僕に、空になった白い小箱を差し出す。
「お前が、大切にするといい。空の箱じゃなく、小さな桂城でもなく。偽物の父親でもなく、きちんとここで生きているお前が」
 箱を受け取って深く頷き返すと、柚木先生は柔らかくて温かい、冬の日の日射しみたいな笑顔を浮かべた。
「柚木先生」
「なんだ」
「桂城のこと、好きですか」
 冷たい風が、桜の枝を揺らす。
「そうだな。……おそらくは、」
 言葉の続きは、木枯らしに奪い去られて聞こえなかったけれど。
 僕は、二度問い返したりはしなかった。
 それが、礼儀だと思った。
 僕の大切な桂城の、大切な人である柚木先生は、人としても教師としても、とても良い人だから。
「お前のことも、好きだよ」
「僕も、柚木先生のこと、好きです。……桂城の次くらいに」
「光栄だね」
 穏やかな声で、柚木先生は笑う。
 僕の大切な桂城の、大切にしている相手が柚木先生で良かったと、悔しいけれど僕は思う。
 空の小箱をそっとポケットにしまって、僕と柚木先生は桜の木を後にする。
 僕らが卒業するまで、指輪はきっとあの木の下で、静かに時を過ごすのだろう。
 そして僕は卒業するまで。柚木先生はその先まで、土に埋められた指輪を思うだろう。
 いつか、様々な思いが大地に溶けて、やがて桜の花とともに柔らかく美しいものに変化するまで。
 僕と柚木先生の大切な桂城が、ここで、寂しさを抱かずにいられるようになるまで。
 春が来るまで――



... ... ... END.


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