[Novels]

【春の終わりを告げる雨】

 今更、この年になって、生きていることの意味について考えようなんて、そんな青いこと思ってしまう自分に、憐れみにも似た笑みを浮かべてしまったりして。
 それを、世間一般には「自嘲」って言うのかな、なんて思いながら、僕は春休みの学校の裏通用口の鉄門を乗り越えた。
 風は随分と温かくて、3月までの冷え込みが嘘みたいだ。
 季節の変化というものは、こんなにも唐突だったろうかと、中学時代を振り返ってみたりして。でも、もう、思い出せないことに気付く。
 履き古したスニーカーで、桜の花びらがまだら模様に張り付くコンクリートの上を踏みしめて歩く。
 昨日降った雨で、どうやら桜は随分と無惨に花びらを散らせてしまったらしい。
 風にはためくパーカーのポケットに両手を突っこんで、裏庭へと向かう。
 あそこには何本か桜の木が植えてあって、その下にはベンチが置いてあるのだ。
 花盛りの頃は天国が頭上に広がるけれど、うっかり5月の頃まで天国気分で居ると、緑色の物体が無数に蠢く地獄絵図が拝めるという、季節感漂うベンチだ。
 去年、このベンチで、僕は晴佳に会った。
 桜の花を見上げて物思いに耽っている晴佳に、僕は友人と遊んでいた水風船をぶつけてしまったのだ。
 よりにもよって後頭部に当たって弾けた水風船は、晴佳の頭と首と背中をすっかり水浸しにしてしまった。
 あの時の晴佳は、とても驚いた顔で振り返って、あまりのことに蒼白している僕らに、それはそれは優しい笑みを浮かべたのだ。
 ――正直、馬鹿がいるなぁと思った。
 後々その話題になったときに、晴佳にそう言われて、僕は返す言葉もなかったものだ。
 ――俺も、結構馬鹿だけどね。
 桜の木を見上げて、その花の美しさに思い馳せていたのではなく、今この美しく咲く花の影で、そのうち地獄絵図となる物体が無数に眠っているのかなぁと考えていたらしい晴佳は、そう言って笑った。
 人が仲良くなることのきっかけなんて、実はささやかな物だろうと思う。
 袖刷り合うも多生の縁とは言うけれど。どんなに多生で縁があったって、袖刷り合ったことにさえ気付かなければ仲良くなんてなりようもないし。どんなにあからさまに袖刷り合ったって、その人との縁を繋ぎたいと思わなければ、今の世の中、ただすれ違っていくだけだ。
 大切なのは第一印象と。そして、その後に繰り返される評価判断なんだろうと思う。
 僕は晴佳の笑顔に、まず好評価をつけたし、その後何度かかわした言葉でも、その評価は得点をあげることこそすれ、さげることはなかった。
 1年だ。
 僕らが一緒に居たのは、たったの1年間だけになってしまった。
 柔らかな風が吹く、春だった。
 薄紅色に咲き誇る桜の下で、晴佳はそれを見上げて、訪れる初夏を思っていた。
 僕らにとっては地獄絵図だけれど、でもそれは、無数に蠢く緑色の物体にしてみれば、命の営みだ。
 生まれたことの意味だとか。生きていることの意味だとか。
 そういうことを考えるのは、やっぱり青い証拠だろうと思う。
 そう言うことは中学生のうちに考えつくして、そして、高校生になったらある程度の悟りを持つものだろう。
 少なくとも僕はそう思っていたし、悟りだって持てていると思っていた。
 スニーカーが、まだ乾ききらない地面に少し埋まる。
 辿り着いたベンチも、やっぱりまだ雨で濡れていて、座ることはできそうになかった。
 去年、晴佳が見上げていた桜の木も、すっかり花が落ちてしまっている。
 桜の下に立ち、足下を見下ろせば、雨水に打ちのめされた花びらが地面にびっしりと張り付いていた。僕のスニーカーに踏まれて、それらがより一層、みすぼらしく、哀れに見える。
 ここに来て、どうしたかったのか、正直なところ僕にはわからない。
 晴佳が居た、あの春に戻ることなどできないことくらい、僕は十分に解っている。
 ただ、どうしても、ここで、この桜を見上げずには居られなかった。
 できることなら、目一杯美しく、花を付けてくれていれば良かったのに。
 まばらに残った花と、枝の先から芽生え始めた緑色の葉が、花盛りの終わりを見せつける。
 今この瞬間にも、緑色の物体は生まれ、育っているのだろうか。
 それともまだ、もう少し、春を待つ眠りの中だろうか。
 温かいはずの風が、一際強く吹いて、僕の心と桜の枝を揺らす。
 悟りなんて、持っていると思うことが幻想だったと、気付かされることは幸いだろうか。
 枝に残っていた雨の滴が、僕の頬へと何滴かこぼれ落ちてきた。
 冷たさに、目を閉じる。
 もっと早くに出会っていたら、僕はもう少し、きちんと、現実を受け止められていたろうか。
 もっと早くに出会っていたら、あるいは、もっと、取り乱せていたろうか。
 風は、気まぐれに何度も吹き付けてきて、その度に枝は僕の頬に雨水を垂らした。
 このままこうして、晴れた春空の下で雨に濡れていたなら、晴佳はまた、馬鹿が居るなぁと笑ってくれるだろうか。
 そんな幻想を抱く自分にさえも、笑ってしまうような僕を、晴佳は笑うだろうか。
 願わくはもっと、次の春も、また次の春も、一緒に笑っていたかったと。そう思うことは、我が儘だろうか。
 多生の縁があるというのなら、きっとまた、晴佳に会うこともあるかもしれない。
 けれども。僕は今、この時に、晴佳とともに居たかったのだ。
 温かいはずの風が、心と体に染みこんできて、僕を震わせる。
 もっともっと、濡れてしまえばいいのだ。
 この桜の木の下で。
 そうすればきっと、僕の青さも雨に流れて、そうしてこの花びらのように、地面に散っていけるだろうから。
 遠くから響いてくる、長い長いクラクションの音を聞きながら。
 僕は堪えきれなくなって、誰もいない裏庭の、ベンチの側にうずくまった。

... ... ... END.


※この作品は【突発性競作企画第14弾『in rain...』】提出作品です。
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